トップページ > 音楽 > ブクステフーデ:7つの連作カンタータ『われらがイエスの御体』

 2010年8月23日更新

ブクステフーデ:7つの連作カンタータ『われらがイエスの御体』

2010年8月18日クラシカジャパンにて鑑賞


『イエスの足・膝・手・脇腹・胸・心(心臓)・顔に触れる』


 十字架上に磔にされたイエスの身体の7つの部分を愛でる、ラテン語のカンタータである。

 キリストの受難をテーマにした曲といえば、何といってもバッハの「マタイ受難曲」が我が国の好楽家には馴染み深い。そもそも聖なる教えを説く福音書を題材にしながら、よりによって処刑のシーンをクローズアップして劇的な音楽をつけ盛り上がるという発想は、一見極めて悪趣味に見える。
 だが、聖人の処刑という理不尽な残酷さと、それを再現し鑑賞する行為のおぞましさのすべてを、あまりにも美しい旋律が浄化してしまう。敬虔な祈りを普遍的な美の中にこめて、天に捧げるという仕組みなのだ。

 「マタイ受難曲」では声楽家が、まるで人類を代表するかのように力の限りに歌い上げる。それに比してこのブクステフーデのカンタータ『われらがイエスの御体』は、詩の朗読や祈りの言葉といったものに近い、穏やかで、柔らかな声により歌われる。受難の場にたまたま居合わせた人びとの眺めた、リアルな情景が映しだされたような曲である。
 歌も演奏も、静かに厳かに「イエスの御体」を見守るようである。過去に起きた史実ではなく、今そこで現実に起こった事実を淡々と語っているかのようだ。大宗教に発展する以前の、聖人に対する民衆の素朴な慈しみの感情がそこにある。心穏やかに、一個人が祈りを捧げるための自然な慈愛に満ちた曲だ。もはやキリスト教の教義さえ離れて、人びとが大切な人格を失った時の哀しみを癒す、普遍的な祈りの感情にまで昇華されている。

 そんな清らかな感情を生む曲が、聖者の死体を7つに裂いて嘗めるように愛おしむような内容なのである。ブクステフーデもバッハも、ドイツ人でありプロテスタントである。そのことが深く影響していることは間違いない。我が民族の感覚から遠く離れていることも確かだ。しかし、キリスト受難の事実を残酷なまでの正確さを期して厳密に検証するこの精神は、近代科学のもつ合理性と合目的性への強いこだわりに深く通ずるものがあり、もはや、我々の人生に無関係とはいえない感覚なのである。

 7曲は、イエスが死にかかわった人びとの人生を順番に表現している。イエスの死により罪を清められ祝福を受けた人びとが、その後の人生においてイエスの復活を自己の内外で体験し、天に召されるまでが描かれているのだ。

 【第1曲:足について】
 丘の上に晒された直後にイエスの傷ついた足に口づけする、といった曲である。死して福音を告げる足であるから「めでたし めでたし」とまで言っている。現代においても、ときに各ジャンルのカリスマと呼ばれる者たちが似たような扱いを受ける。
 曲は、イエスが生前にその足で、各地に赴き福音を説いて回ったときのように、テンポよく颯爽としている。生前のイエスを懐かしみ、慈しんでもいるのだ。

 【第2曲:膝について】
 イエスの豊かな慈愛を懐かしむ曲である。膝に抱かれ、ゆりかごにのって、ゆったりと揺られる陶酔感がある。そして、またしても「めでたしイエス」と言う。重罪人のごとくに十字架にかけられたことを、である。それによって「私」が癒され、清められ、重荷や苦痛からも解放されたのだと。こんな「私」を身に受けて、西洋人は生きているのだ。恐ろしい。おぞましい。でも、美しい。

 【第3曲:手について】
 痛みと悲しみをこめた、一番劇的で起伏に富んだ曲である。処刑による惨さをリアルに伝えている。「手」というのは人間のパーツで最も生活に直結している存在だからかもしれない。「血潮」や「血のしたたり」が流れる生々しい描写、「むごい釘」という凶器の提示により、生身の人間の受けた残虐さが抽出される。まさにイエスの生身の最後の瞬間を反芻しているのだ。痛みと悲しみが身近に迫る想いである。

 【第4曲:脇腹について】
 前の曲の暗さを打ち消すような、力強く、雄々しい曲である。死の匂いを追い払う、愛と生の喜びに満ちた言葉が連なる。甘味な蜜があふれるとか、そこには愛の力があふれている、とかいう表現からすれば、「脇腹」の具体的な部位がどこを指すのか自ずと察せられる。命の連環を暗示しているのだ。
 端的には、イエスの再生を願う気持ちの表れととらえることができる。

 【第5曲:胸について】
 前曲に引き続き、キリストの現世における再生を願うような曲である。すでにイエスの魂は再び息を吹き返しつつある。人びとの中に生まれたばかりの赤子のように芽生えた美徳の心に、イエスの慈愛の乳を与えて育む者として選ばれる喜びを切望しているのだ。イエスの慈愛が、軽やかに優しく吹き抜けていくような曲調である。

 【第6曲:心について】
 第1曲から第3曲までは、取り戻せない過去やすでに起きてしまった受難を嘆く哀切の歌であったが、第4曲以降は、未来の栄光を讃える歌がつづく。第4、第5曲はイエスの現世における復活を願う歌であったのに比して、この第6曲は未来においてイエスの精神を受けとめる、信仰告白となっている。重苦しく荘重な調べに決意の重さが表れている。

 【第7曲:顔について】
 イエスの顔にその教えは表出している。現世においては、それはひどく傷つけられていた。人びとにその教えが全きまでに照らされることはなかった。「私」の死に際してその顔を現したまえ、と言っている。荘厳で神々しい曲に包まれて、天に昇っていく栄光を夢見る想いが伝わってくるようだ。

 古楽器と現代楽器により編成されたアンサンブルが、ピリオド奏法による透き徹った音色の演奏を奏でる。オペラのごとくに劇的な歌いっぷりの「マタイ受難曲」とは正反対の、悲哀のこもる切々とした歌声に癒された。宗教曲でないと味わえないサウンドである。


[演目]ブクステフーデ:第1曲:足について/第2曲:膝について/第3曲:手について/第4曲:脇腹について/第5曲:胸について/第6曲:心について/第7曲:顔について
[指揮]ルネ・ヤーコプス
[演奏]マリア・クリスティーナ・キール、ローザ・ドミンゲス(ソプラノ)アンドレアス・ショル(アルト)
ゲルト・テュルク(テノール)ウルリヒ・メスターラー(バス)バーゼル・スコラ・カントルム
《バーゼル・スコラ・カントルム》
キアラ・バンキーニ、レイラ・シャイエフ(ヴァイオリン)
ジェーン・アハトマン、セルジオ・アルバレス、フランソワ・フランソワ・ジュベール=カイレ、クリストフ・ウルバネス(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
ペトラ・シャルカ(チェロ)
デイヴィッド・シンクレア(ヴィオローネ)
ペーター・クロトン(テオルボ)
イエルク=アンドレアス・ベッチャー(オルガン)
[映像監督]トーマス・グリム
[収録]2004年パイェルヌ修道院教会堂
■字幕/約54分

【DVD】ブクステフーデ『われらがイエスの御体』 ヤーコプス






ページの先頭へ