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 2010年7月20日更新

映画「ベニスに死す」

2010年5月19日WOWOWにて鑑賞


『彼はもう死んでいる!』


 アッシェンバッハはベニスへ向う舟の途中で居眠りしていた。本当はここでもう死んじゃってるのである。
 ベニスに着いてからの映像は彼が死に際にかいま見た過去と幻想の世界だ。海を渡った先はベニスのようでいて、実はあの世の入り口だったわけである。彼は“無免許”の船頭(死神)に導かれてただひとりここに至ってしまったのだ。彼は過去を回想しながら果たせなかった夢を見る。タジオは理想が偶像化された幻影に過ぎない。それも恋の対象ではない。実はなりたかった“自分”の幻影なのだ。
 我々は彼の過去と“幻想”のベニスを行ったり来たりさせられる。彼の人生の“走馬灯”をいっしょに体験させられるわけだ。回想の主役は、アッシェンバッハ自身と家族、そして友人のアーノルドである。アーノルドのモデルはシェーンベルクではないかと言われているが、友人との芸術談義は、アッシェンバッハのモデルであるマーラーとシェーンベルクの議論だとすれば稚拙すぎる。この場合は、自己の内面との会話に見える。自己とは、アッシェンバッハというより最終的にはヴィスコンティのことである。この映画はヴィスコンティの一人称で綴られているといっていい。アーノルドのいう「美は努力で得られるものではない」とは、ヴィスコンティ自らの才能の限界をさしているのだ。ヴィスコンティは何より審美主義者である。彼の審美眼からすれば、実は自身の造った映画などとるに足らぬものにみえていた―俺は本当はブーイングを受けても不思議はなかった、と述懐しているのだ。アーノルドが憎らしいまでにアッシェンバッハの作品を揶揄するのも、自虐の現われだからである。
 ヴィスコンティは、貴族出身のバイセクシュアルである。―貴族とバイセクシュアルは同語反復に近いといってもいいが―。だから基本的には保守的で、古典的な審美眼をしている。大時代的といってもいい。博物館的といってもいい。いってみれば、臆病なのである。それが、コレラや娼婦に対しての病的なまでの過剰反応となって現れている。タジオという存在も少女漫画チックである。笑いさえ誘う俗っぽい美しさを感じる映画だ。
 19世紀を集大成したようなマーラーを、20世紀の音楽を拓いたシェーンベルクに対峙させているのは、アッシェンバッハ(ヴィスコンティ)をマーラーの側、つまり19世紀の側に立たせているからだ。臆病なまでにか弱く人間的な美しさに溢れていた19世紀は、20世紀によって破壊された。19世紀に勝利した20世紀であるが、その先にもっと深い闇が待っていたことを映画で使われたマーラーの曲が暗示している。有名な交響曲5番アダージョではない。ベニスの風景からわき起こるように流れていた交響曲3番第4楽章のアルト独唱のことだ。その歌詞は、ニーチェの「ツァラトストラの真夜中の歌」からとられている。
“私は眠っていた!深い夢から私は目覚めた!世界は深い!昼間が思っていたよりも深い!世界の苦悩は深い!”(訳はWikipediaより一部を引用)
この映画の世界は、舟で居眠りをしていたアッシェンバッハ(ヴィスコンティ)が目覚めたベニスで見た白日夢である。コレラの流行は忍び寄る20世紀であり、アッシェンバッハの幻想的な死は滅びゆく19世紀を表象しているのである。19世紀の“眠り”から覚めた20世紀の“昼”が思っていたより、“世界の苦悩”はもっとずっと深かったのだ。




出演:ダーク・ボガード、シルヴァーナ・マンガーノ、ビョルン・アンドレセン、マリサ・ベレンソン、マーク・バーンズ、ロモロ・ヴァリ、ノラ・リッチ
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:ルキノ・ヴィスコンティ
原作:トーマス・マン
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バダルッコ
撮影:パスカリーノ・デ・サンティス
音楽:グスタフ・マーラー
上映時間131分
1971年イタリア/フランス

ベニスに死す [DVD]
ヴェニスに死す (岩波文庫) (文庫)
マーラー:交響曲第5番〜バーンスタイン(レナード),ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
マーラー:交響曲第3番〜マゼール(ロリン)




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