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 2010年7月5日更新

映画「ゴーストワールド」

2010年4月24日ケーブルTVザ・シネマにて鑑賞


『イーニドの勝負服は、いつも真っ赤!』


 ―冒頭― イーニド(ゾーラ・バーチ)は高校の卒業式前夜に夢見ている。大勢の男の前で踊る金ピカで特別な自分を。“明日から自分はすぐにそうなれるのだ”と。彼女の願望と夢想はインドの果てまで広がっている。インド映画の激しい踊りのシーンはTVで放映されているわけではなく踊るイーニドの頭の中が我々観客の前に現れたものだ。(イーニド自身はTV画面を観ていない。TV画面は窓の外の方、つまり、スクリーンのこちら側を向いている)卒業式が待ち遠しい彼女は式に着ていく赤い礼服を身にまとい激しく踊り続ける。伴奏されるインド音楽の強烈なリズムに乗って我々は魅惑的な“ゴーストワールド”に引き込まれていくことになるのだ。
 自己と他者の非分離なイリュージョンこそが“ゴーストワールド”である。スクリーンはイーニドという女の子の目に映された“幻影”である。我々はスクリーンを通してイーニドの心の中に芽生えて行く“ゴーストワールド”を体感させられるのだ。例えばレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)はイーニドにとって彼女の親友であり、分身であり、恋人であり、恋敵であり、憧れであり、あるいは憎しみでさえある。ひとりの少女イーニドの多面性を外在化させたふたりめの“イーニド”なのだ。イーニドはよく人の言葉をパクったりその言動を真似たりする。シニカルな彼女に似合わない行動にもみえるが、彼女が興味を持った、音楽や作品、人の言動が、いったん彼女の中に入ると自分のものか、他人のこしらえたものか彼女には区別がつかなくなってしまうのだ。
 映画の中に広がる“ゴーストワールド”はイーニドによってコレクションされた世界である。彼女をとりまく人々や事象はイーニドによって選択される。我々も彼女の“ゴーストワールド”に巻き込まれていくことになる。イーニドの“眼鏡”を通してしか現前しない世界だから我々にはそれらの実体がはっきりとはみえなくなる。彼女の感覚に引きずり込まれてしまうのだ。例えばイーニドが立ち寄るファミレスおいて彼女によって見いだされた奇妙な二人組の客がいる。彼らは、晴れの日に傘をさしただけでイーニドによってサタニスト扱いされる。彼女の“ゴーストワールド”の外に居るときなら我々があえて彼らの存在に“意味”を与えることはありえない。他者の乾いた視線で世界を見ることの快楽がこの“ゴーストワールド”の中にはあるのだ。こうなると、ファミレスのブキミな店員やポルノショップの太った店員までもが意味ありげにみえてくる。普段我々自身の生きている世界では起こりえない感覚だ。でもそれがまさにこの映画の魅力だ。いろいろな見方を感じて遊ぶことができる。例えば、道に落ちたジーンズは“そこらに転がっているありふれた価値観“を表し、シーモア(スティーヴ・ブシェミ)は不動産屋の女の“枕営業”によってジーンズをはかされてしまう(=“ありふれた価値観“に絡めとられる)―とか。来ないバスを待つ男はイーニドのモラトリアムを表す―とか。コンビニに現れるヌンチャク男は、ジョシュ(ブラッド・レンフロー)のルサンチマンが現前化したものである―とか。シーモアの同居人ジョーは、シーモアに理性と慰めの言葉をかけるシーモアの分身である―とか。いくらでも膨らんでいく。
 イーニド同様に自己の人格と不分離になるまでコレクションを重ねていきたシーモアは、そのために人生の重要な選択を誤った過去を持っている。彼は、大好物のチキンとロゴへの憧れから安易に大手チキンチェーンへの就職を決めてしまったのだ。実際に勤めてみると単なる事物から想い描いたイメージとのギャップに苦しんだらしい。シーモアはかつて違法にコレクションしてしまい込んでおいた会社の古い宣伝ポスターをイーニドに見つけ出される。そのポスターは憧れと現実、自己と下界との解離を思い知らされた過去の象徴である。シーモアにとっては苦い幻滅の思い出に触れられたようなものである。だが、ともかくも異性が自分の内面に初めて触れてくれたのである。しかもイーニドにとってもそれはときめきの瞬間だったようだ。二人のひとときの“ラブストーリー”は乾いた“ゴーストワールド”の中で唯一、生の感情が直に溢れる瞬間といえる。シーモアとは作者かあるいは監督がイーニドの世界に降りたった存在だ。彼らは描いているうちにイーニドに恋したに違いない。当然、この都合よき恋は最後まで実らないのだが。
 さて、シーモアたちと同様、映画の中のイーニドの世界にどっぷりと浸かった我々観客の恋=“ゴーストワールド”も終わりを迎えることになる。来ないバスを待つ男が遂にイーニドの前からバスに乗って姿を消す。彼がベンチを去りバスに乗ることで、ベンチには“LIFE”と“NOT IN SERVICE”の文字が現れる。(“未使用の人生”=“人生これからだ”とも読める)イーニドはバスが去るのを眼で追った後、ベンチを見てハッとした顔をする。自らのモラトリアムの終了、すなわち“ゴーストワールド”からの旅立ちの時を覚ったのだ。男はイーニドの主体的な意志の力によって消えたのである。
 ラストシーンの寂しさはどこからくるものだろうか。イーニドの死が暗示されているためではなく、我々観客がイーニドに取り残された気分になるからである。“ああ、イーニドがひとりでどこかにいなくなっちゃうよ!”
 音楽とはふしぎなもので、あのラストシーンに冒頭のような激しいインド音楽を重ねて流せば、また、別のイメージ、もっと楽観的な雰囲気になるはずだ。“おーい、イーニド、がんばれよ!”―とか。現にエンドタイトルでは冒頭のインド音楽が流れ、パワフルで陽気なリズムの力で我々も気を取り直して映画館をあとにすることになる。映画の中では内弁慶で受動的な人生に戻っていったシーモアまでが、音楽の鳴り終わったオマケのシーンでそれまでの人生をやり直すかのように能動的な行動に打って出る。我々観客も“ゴーストワールド”から離れてから能動的な人生を送ることができるだろうか。短いこのオマケシーンは、監督からの挑戦的なメッセージともとれる。
―イーニドは、決意を固めた勝負の時には、真っ赤な服を着る。もちろん、ラストもそうだ。だから死ぬはずはない。丸くて可愛らしいカバンには、イーニドの小さな決意が入っている。




出演:ゾーラ・バーチ、スカーレット・ヨハンソン、スティーヴ・ブシェミ、ブラッド・レンフロー
監督:テリー・ツワイゴフ
製作:リアンヌ・ハルフォン、ジョン・マルコヴィッチ、ラッセル・スミス
製作総指揮:ピッパ・クロス、ジャネット・デイ
原作:ダニエル・クロウズ
脚本:ダニエル・クロウズ、テリー・ツワイゴフ
撮影:アフォンソ・ビアト
プロダクションデ
ザイン:エドワード・T・マカヴォイ
衣装デザイン:メアリー・ゾフレス
音楽:デヴィッド・キティ
上映時間111分
2001年アメリカ

ゴーストワールド [DVD]
ゴーストワールド〜サントラ [CD]
Ghost World(ペーパーバック)Daniel Clowes(著)




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