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 2010年5月24日更新

映画「未知空間の恐怖 光る眼」
(原題/英語題 Village of the Damned)

2010年4月14日シネフィルイマジカにて鑑賞


『超能力を持ってるのにその使い方がわからない人へ』


 登場する子どもたちが身につけている超能力は、主に人の心を操れる力だ。実際にそんな力があれば人生は楽ちんだ。他人の心を読み行動を予測できたら、ビジネスでも人間関係でも圧倒的に有利になれる。
 だが、隣りにいる人間にも同じ能力が備わっていたとしたらどうなるか。二人は、例え話の矛と盾のような関係となって、黙って何もせず、お互いに見合うばかりとなるだろう。感情を押し殺し、相手との争いを無条件に避けるようになる。そういう超能力者が集団ともなれば、お互いの利害を相殺し、個人の感情を排除することになる。残るのは非情な生存本応だけだ。そこには自我[エゴ]はない。超能力を持つこの子どもたちも、自我[エゴ]がないからこそ無表情なのだ。
 熱すぎるミルクを与えられて母親を睨むのは、熱いミルクが嫌でダダをこねているのではなく、生命を脅かす危険があるからだ。だから、泣きもしない。与えられた箱根細工の箱を盗られそうになって眼から恨むように光を放つのは、オモチャで遊ぶ楽しみを奪われるからではない。箱の中にチョコが入っていることを知っているからである。彼らにとってチョコは甘く美味しい大好きなお菓子ではなく、単に生命維持のための食料に過ぎない。だから、食べてもニコリともしない。生命の危険を感じれば、車に轢かれそうになっただけでも攻撃するのに、ボールが頭にあたっても放っておく。もし、自我[エゴ]があればバカにされたと思って怒るはずだ。自我[エゴ]=自由意志がないところに、善いも悪いもない。結局、生きていく上で、集団[種]保存のための論理に従う以外の行動規範はなくなる。映画の中では主人公のゴードンが、こどもたちの“新しい集団”を“アリかハチのような社会”と定義していた。彼らは生き残るため必然的に、他者の排除、ないしは同化に向う。そのために他者に向ける眼差しが、“光る眼”なのである。
 その意味では、よそ者を恐れる排他的な村人の視線と通ずるものがある。現に、村人たちは自己防衛の名の下に集団で子どもたちを襲った。しかし、村人たちは排撃されてしまう。ここに及んで、子どもたちへ向けたゴードンの“和解”への努力は水泡に帰した。彼は“光る眼”によって閉ざされた心の壁をやぶろうとしたが、そのことの無意味さを思い知らされることとなった。壁は人間の側にもあったのだ。しかも、この壁は彼らには簡単に破られてしまう。人間個人には、弱き自我[エゴ]があるからだ。人類は、このままでは、この集団に侵略の意志があろうと無かろうと、自らの防衛本能が災いして滅びてしまうことになるかもしれない。ゴードンは自己犠牲に目覚め、自我[エゴ]を超えた強固な壁を築き、彼らに立ち向かう決意をすることになるのだ。 
―子どもたちの髪の毛の断面が“D”の字に見える。もちろん、Devilの“D”だ。
―ジョージ・サンダースの名演も光る!



出演:ジョージ・サンダース、バーバラ・シェリー、マーティン・スティーヴンス、ローレンス・ネイスミス
監督:ウルフ・リラ
製作:ロナルド・キノック
原作:ジョン・ウィンダム
脚本:ウォルフ・リラ、スターリング・シリファント、ジョージ・バークレイ
撮影:ジェフリー・フェイスフル
特撮:トム・ハワード 音楽:ロン・グッドウィン
上映時間80分
1960年アメリカ

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