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 2010年5月17日更新

映画「ガルシアの首」

2010年4月23日ケーブルTVChザ・シネマにて鑑賞


『ガルシアの“首”は男の誇りを象徴?』


 大旦那の命令は「ガルシアの生命を奪え」ではなく「ガルシアの首を持ってこい」である。なぜか。
 大旦那の心にはサタンが宿っている。だから彼は、肉体的な生命を超えた根源的なもの=“魂”=“首”を欲したのだ。サタンに“魂”を狙われたガルシアは自ら冥界に逃れる。(現にガルシアは見つかる前に事故で死ぬ。)だから、ガルシアの首=魂を持ち帰るためには死者の世界を訪れなければならない、ということになるのだ。そんなことは、ただ賞金が目当てだけの、しがないピアノ弾きのベニー(ウォーレン・オーツ)にはできるはずもないことだ。だが、ベニーは愛する女性エリタとの結婚を夢見ることで、死をも恐れぬ勇気と力を得ていく。闘う真の男になるための修行と試練の場が彼をいっそう鍛え上げる。ベニーとエリタはついにガルシアの埋葬された墓に到達する。それは同時に二人の死を意味する。(二人はいっしょに墓に埋められる。)しかし、それは新たな生命にもつながることとなる。ベニーはエリタを母とし、ガルシアの魂を得て、土の中から再び生まれ出る。スーパー・ベニーの誕生である。生まれたての泥だらけな形相の凄まじさ!
 −そこから始まるベニーが大旦那の元に首を届けるまでの冒険譚は、いわば“ひとりワイルドバンチ”状態だ。男の中の男がお届けするバイオレンスの快楽をお楽しみください、といった趣き。サタンとの闘争を前にガルシアの魂がベニーを荒ぶる神のごとくに変身させていく。
 そして遂にガルシア“の魂”とベニーは、二人でサタンと対決し、ついに大旦那の肉体からサタンを追い出す−つまりは大旦那の肉体的生命を奪う−。すでに洗礼を受けたガルシアの息子はサタンの誘惑からはもはや自由である。息子の魂をサタンから守ったガルシア“の魂”とベニーの二人は、母子に別れを告げ旅立つ。そうはさせない!サタンの執念が無数の銃弾となってベニーを襲う。ラストショットの煙り立つ銃口はサタンの眼だ。その眼はまだ魂をあきらめていない。サタンとの戦いは永遠に続くのだ。
 −この映画の冒頭のシーンは、水辺のニンフを描いた美しい絵画のようだ。ガルシアの子を宿したテレサはニンフなのである。テレサは、いわば水の精だ。ニンフだから父の中のサタンが見える。そしてサタンから息子の魂を守りたいと願うのだ。同じくエリタもニンフだ。ベニーがガルシアの魂救済に向ったもエリタの導きによるのだ。“木”の下でベニーと結婚の約束をかわす彼女は木の精といえる。(ニンフは性愛にはおおらかで、エリタも性欲過多なところを所々で示している)
 エリタは、旅の途中でヒッピーに襲われて逃げようとする。ギリシャ神話では、木の精エウリディケはオルフェウスと結婚直後に、牧人の神アリスタイオスに追われ、逃れようとして毒蛇に噛まれて死んいる。つまりこのシーンでは、エリタのその後の死を暗示しているのだ。そしてオルフェウスの冥界下りのように、ベニーひとりが冥界から戻ることになるのである。
 ベニーのいた酒場は冥界への入口だ。ここから発車するバスは死者(観光客)を乗せて冥界へ向う。−この冥界バスは何度も登場する−。ベニーは冥界に引き込まれぬようにサングラスで魂を守っていたのだ。だからニンフであるエリタと一緒の時など特別な時しか外せなかった。

出演:ウォーレン・オーツ、イゼラ・ヴェガ、ギグ・ヤング、 ロバート・ウェッバー
監督:サム・ペキンパー 製作:マーティン・ボーム
製作総指揮:ヘルムート・ダンティーネ
原案:フランク・コワルスキー、サム・ペキンパー
脚本:サム・ペキンパー、ゴードン・ドーソン
撮影:アレックス・フィリップス・Jr
音楽:ジェリー・フィールディング
上映時間108分
1974年アメリカ

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