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 2010年5月4日更新

映画「ツィゴイネルワイゼン」

2010年3月31日日本映画専門チャンネルにて鑑賞


『死んでいる者は誰もいない』


 主役の青地には、鈴木清順監督の自己投影された姿を感じる。映画を創るものの宿命をそこに見たような気がした。
 映画監督は、映像と役者を支配し、自分の世界を創り上げる神様のはずだ。ところが作品がひとたび完成してスクリーンに映し出されるとその世界から弾き出され、観客といっしょに、ただぼんやりと眺めつづけることしかできなくなる。当然、そこに自分の姿はない。“その世界で絶対者だったこの俺がそこにはいない”
 一方、役者はスクリーンの中で新たな生命を与えられる。彼らは、監督が苦心してせっかくこしらえた美しい世界の中でやりたい放題。“俺だけひとりぼっちで何もできないでいる。なんと理不尽な!”青地が見せる茫然自失の表情にその気持ちがよく現れている。誰しも自分自身の人生から、ぽつんと取り残されたような、どうしようもなく寂しい瞬間がある。青地から見れば、親友や妻や門付は、自由な“生”の世界にいる。それにひきかえ、青地自身は生きてるのか、死んでるのかさっぱり実感のない状態にある。他人の人生をただただ、傍観しているだけの何とも宙ぶらりんな具合だ。“もう、耐えきれない”ついには鈴木清順自身が自らの声で叫ぶ「もう、いい加減にしないか」と。中砂に突然の死を与えてしまったのだ。それでも所詮、監督とはいえ映画の中では、役者にあいまいな死しか与えることができない。それは、死そのものではなく、死のイメージを観客に与えることでしかないのだ。創り上げられ他者の中で育ってしまったイメージをけっして完全に消すことは不可能だ。何でも創るのより、壊す方が難しい。
 映画を観ているとき、観客は監督を忘却している。彼岸に向う舟に誘われるラストシーンにおいて表現されたのは、作品から他者によって疎外されていく自らの運命である。美しい映像が眼の奥に残ったとしても、心の中の奥深く刻まれるのは役者が生きている強烈なイメージだ。例えば、中砂が「鰻が喰いたいな」とダミ声一番、巨大な鰻に豪快に食らいつき、頬張り、酒を飲む姿。「君ニャ悪いけど、ボカ苦手だね、ああいう女」とかいってるくせに、親友の細君と密通してしまう、ずうずうしいばかりの逞しさ。最後は冬山で、裸体に荒縄を巻き、ウィーっと、わけのわからぬ歌をうたいながら死ぬ。こんなに力強く、美しい死に方は映画の中だからできることだ! 何度も何度もこの映画を観ていると、監督のこしらえたものがいつのまにか削ぎおとされて、役者が輝き続ける姿だけが心に残る。でも、そんな映画が撮れる監督は、やっぱり凄い。
―青地役の藤田敏八は映画監督だからこの役にはピッタリ―




2010年3月31日日本映画専門チャンネル
「ツィゴイネルワイゼン」
監督 鈴木清順
出演 原田芳雄、大楠道代、藤田敏八、大谷直子
脚本 田中陽造
原作 内田百
公開年 1980年
上映時間 146分

ツィゴイネルワイゼン デラックス版 [DVD]

原作とされる内田百閧フ「サラサーテの盤」は、下記の2種にそれぞれ収録されています。

サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫)
東京日記 他六篇 (岩波文庫)
ツィゴイネルワイゼン/ヴァイオリン名曲集
ヴァイオリン/アンネ=ゾフィー・ムター
ジェイムズ・ レヴァイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団




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