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2010年7月25日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―11―
“A Painful Case”「痛ましい事故」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「痛ましい事故」


『「痛ましい事故」は必然のものだったのか?』


 "Dubliners"「成年期」編の最後の作品「痛ましい事故」はトリッキーな小説であり、読者を欺く罠が潜んでいる。ジョイスが"Dubliners"のこれまでの10作で試みてきた、語り手が作中人物に成り済ます手口をうまく利用しようとしているのだ。この話にはその手口にすっかり慣らされきった後に読者が味わう痛快な裏切りが用意されている。
 なぜジョイスは、そんなことまでしてこの話を綴らねばならなかったのか。

 そもそもこの「痛ましい事故」はダフィー氏とは全く関係のないことなのである。シニコウ夫人はダフィー氏の存在すらほとんど覚えていないだろう。あたかもダフィー氏にこの事故の責任があるがごき描き方がされているが、事実は全く異なる。
 実は事の発端は主人公ダフィー氏が「痛ましい事故」の新聞記事を見たときにある。彼はこの記事を見て驚愕した。その犠牲者が4年前にコンサートで偶然隣り合わせた人だったからだ。そのときたまたま耳にした彼女の言葉が心にかかり「この女性を永遠に記憶にとどめようとし」た相手だったからである。実際は決してここに描かれているような激しく感情が交錯する物語が二人の間に起きたわけではなかった。それは彼の一方的な幻想にすぎなかったのだ。ダフィー氏はたまたま出会ったシニコウ夫人のイメージを自分の心の中に取り込み、ひとり秘かに二人の物語を美しく夢想した。心の中に封じておいたそんな“永遠の恋人”がかくも無様な酒浸りとなって、惨めで「痛ましい事故」により生涯を終えた事実を眼にして凄まじい衝撃を受けたのである。彼は最初、己の神聖な“追憶の物語”を穢されたように感じていわば八つ当たり気味に彼女を憎しみ出す。しかしこのまま「あの女」を憎しみ否定することは己の神聖な“追憶の物語”を永遠に葬り去る事になる。それはひいては自己否定に繋がるものだ。自我の崩壊を招くものだからだ。そんなことはできない。
 “自分の描いた虚構が間違っていたのだろうか”―彼は虚構の中から重い腰をあげることになる。ここで初めて現実と虚構の間に立ち双方を見据えることになったのだ。
 彼の描いた物語は、浮遊する存在ながらも彼女が現実にどこかで現実に生存していてこそ、彼の意識の地平線上にかろうじて繋がれていたものだ。そのことで彼の心は永遠の孤独から遠ざけられていたのだ。孤独な生活を愛しながらも魂の孤独には耐えきれない自我を守る為に。だがもはや彼女が現世から永遠に去ってしまった事実を知った後に、彼女の存在を心の中に取り戻すには、彼女の魂の孤独に共鳴する新たな物語を創作して夢想を続けるほかない。ダフィー氏は自ら罪を背負い仮構の“贖罪”をでっち上げることで再び彼の中のシニコウ夫人を神聖な存在として蘇らせようとしたのである。だが結局その想いは、機関車の登場によって静かに葬り去られることとなる。
 新聞記事に書かれている「痛ましい事故」は、新聞の読者である彼にとってはそのままではまだ彼の幻想と大差がない。文字に記された記号のような、ただの情報にすぎないのだ。だからたやすく自分の中のフィクションに潜り込ませて、架空の物語に継ぎ足すことも可能になったわけだ。新聞記事は一見、情報を単純な事実を伝達するだけの無機的な存在にみえるから。だが新聞記事の中に非情に描かれている現実そのものは、ずっしりとした重量感を伴って読む者の心に容赦なく進行していく。その所業は、命ある人間を無表情に踏みつぶす機関車に通ずるものがある。
 彼の前には彼女を死へ追いやった、その機関車が恐ろしい生き物のような実体感を伴って現れる。そしてゆっくりと去っていく。この悪魔のような生き物が彼女の死ともろともに自分の神聖な“追憶の物語”をも葬り去っていったのだ、という厳然たる現実をダフィー氏はここで初めて強烈に覚らされたのである。幻にすぎなかった夢想が暗闇に消えていく。完全な静寂が訪れる。彼はもはや虚構の中でも孤独となった。虚構の中に孤独を癒してきた者が向えた悲劇である。では彼に救いはないのか。
 救いの道は彼自身が述べている―「自分の人生も孤独なものとなっていき、ついには自分もまた、死んで、存在しなくなって、一つの思い出となる――もし思い出してくれる者がいるなら。」―孤独であるはずの彼を「思い出してくれる者」とは誰か。読者である。だから彼はこの話を語りだしたのである。孤独の中に訪れた静寂を破りついに声をあげたのだ。
―もちろんダフィー氏とはジョイスの分身である。
―“孤独の精錬がもたらした沈黙の静寂を破る物語作者の産声”―これをもってジョイスの自我を内面から見つめた物語群は終わりを告げた。

 試みに話の最初から、叙述の順番に沿ってジョイスの潜ませたメタフィクションの錯綜する奇妙な世界を楽しんでみよう。
 冒頭では主人公ジェイムズ・ダフィー氏の隠遁者のような生活が淡々と語られている。「都市からできるだけ離れて暮らしたかった」「古い陰気な家に住み、窓からは廃屋となった蒸留所の中を覗き込むことができ」といった隠者の棲処を思わせる描写がつづく。部屋の様子は達観したがごとくに静まり返った住人の冷えた心を表している。もはや暴れる気配もなくなりかかっている自我が、ランプスタンドにかかった「白い笠」となってひっそり佇んでいる。(これは「小さな雲」として他作にも登場しており、ちっぽけな自我を表象している)棚の本は「下から上へ嵩張る順に整理されてい」てワーズワースからカトリックの教理問答に渡る蔵書に、中庸で起伏のない内的性向が現れている。すっかり縮こまったダフィー氏の自我は心の片隅にその残滓がしまい込まれている。それが「手箱」の中身だ。
 暗く陰気に綴られるその険しい顔つきは、洞窟の奥に引きこもり妖しく光る眼だけを下界に向けているかのようだ。しかし、自己の殻に篭ったダフィー氏の魂が自らの造り上げた王国を徘徊するときがある。
「妙な自伝癖があるために、ときおり頭の中で、己自身のことを三人称の主語と過去形の述語を用いて文章に記す。」
 ここでこの話が最初からダフィー氏による創作である、ということがわかる。これまで綴られてきた彼の性格、および、この後すぐに語られ始める銀行の出納係としての心穏やかな生活はすべて彼の“創作”した「自伝」なのだ。「自伝」だから脚色はあっても虚偽の想像を大きく交えることはない。現実に近い。だから―「日々の生活は平坦に過ぎていく――波瀾なき物語である」
 だがここから先、「波瀾」の芽が、彼の“物語”に徐々に挿入されていく。
 確かに、円形ホールでシニコウ夫人と隣り合わせたとういうのは正真正銘の事実である。そのとき客席の入りは悪かった。そこでシニコウ夫人はこう呟いた「今夜はこんなに入りが悪くてお気の毒!がらがらの席に向って歌うなんて酷ですもの。」―それを耳にしたダフィー氏はなぜその言葉を「会話への誘い」と受け取ったのだろうか。それが今夜歌う歌手のことでなく、自分のことを言われたように感じたからである。彼は自分の思いつきをメモ用紙に書き留めたり、頭の中で己自身のことを文章に記しているが、それはまるでこの日の閑散としたコンサートのごとくに「がらがらの席に向って歌う」ような空しい行為であった。彼はシニコウ夫人に己の孤独の叫びを聞かれたような気がしたに違いない。彼は「驚いた」―自分の唯一の理解者であるように強く感じたのだ。だから「彼はこの女性を永遠に記憶にとどめようとした」のである。ここから「記憶」の中のシニコウ夫人がダフィー氏の「頭の中で」ひとり歩きをさせられ始めることになったのだ。
「二、三週間後、アールズフォート台地のコンサートで再び出会った」とある。彼は最初の出会いの時にシニコウ夫人たち母娘から、この「アールズフォート台地のコンサート」に行くことを聞いていたのである。彼も日を合わせてシニコウ夫人をいわば待ち伏せたのだ。1回目は偶然だが2回目はダフィー氏の意志によるものである。実は1回目の時にたいした会話をかわせたわけではなかったのだ。彼は「言葉を交わすうち」といいつつも具体的には「もう一つ隣の席の若い女性は娘だ」ということしか会話内容のごときものは述べていない。あとはひたすらシニコウ夫人の表情やその魅力的な肢体についての描写に終始している。彼はここでは彼女の肉体的特長を記憶に刻み込んだに過ぎなかった。結局、現実には無理に出会いを求めた2回目のコンサートに至って、やっと名前や家族構成など基本的な情報を入手できた程度のつき合いに終っていたのである。
 2回目までの出会いには特定の場所が記されていて交わされた会話も具体的だ。ところがその次の3回目については「偶然、三度目に出会ったとき、彼は思いきって会う約束をした。彼女は来た」と話の先を急ぐような口ぶりで具体的な描写を省いている。この後に発展していくことになる夫人との“情熱的”な感情のやり取りを思えば、誘いをかけるときの感情の機微が事細かに語られてしかるべきだ。それは、実に3回目の邂逅以降の話がダフィー氏による完全なフィクションに移るからだ。ここから先は全くの虚構の世界になる。ダフィー氏はシニコウ夫人との幸福な交際の日々を夢想し始める。彼はその中では「己の知的生活を彼女と分ち合」うようになる。彼女も「自身の生活の事実」を明かし、「母親のごとき気遣いをもって」助言して「彼の聴罪司祭」となるまでに精神的な親密度を深めていくことになるのだ。彼の虚構の中では社会運動に参加し挫折することにすらなっている。実際彼はそのような活動に直接関ったことはないだろう。事実ではあり得ないからこそわざわざ夢想し、叙述しているのだ。
 彼はここに至って厚かましくもシニコウ夫人にこう言わせた「どうして自分の思想を書いて発表しないのか」と。それに対して彼は責任の所在を世間に押し付けるような理由を述べている。自分に言い訳をしているのである。
 しかしこうして彼のシニコウ夫人に対する親密さが虚構の中とはいえ高まり続けていくとついに、行き着くべきところに行き着くようになる。彼女が情熱の手を彼に差し伸べてきた、というのは彼の勝手な願望が描く夢想である。彼は元々シニコウ夫人に対しての性的情熱を自分の中に封じ込めていて、それを自身で認めることを拒んでいたのだ。それを認めてしまうとシニコウ夫人とのプラトニックな親交に徹する、己の“崇高な自我”を否定することに繋がるからだ。一方で彼自身の本能が彼に迫るシニコウ夫人への性的情熱を完全に抑えることも不可能になっきた。夢想の中での親密さが増すに連れ「二人はもっと身近な話題を口にした」ようになる。フィクションが迫真性を増すほど避けられない想念だ。ついに夢想の中での親交は破綻をきたした。彼はそれをシニコウ夫人の責任に転嫁して、自我を現実から再び逃避させたのである。
 夢想の中でだけ生きていた虚構の物語は彼自身の手によって終末を迎えた。「四年が過ぎた」から先の話は再び彼の“創作”的「自伝」に戻る。これは再びシニコウ夫人不在の世界だ。彼は物語創造に失敗してニーチェの“虚無的な世界”に憧れをもつようになっていた。(それは実際のニーチェの思想とは関係のないものだ)彼は勝手な結論を下す「男女間の友情は性的関係がなくてはならないゆえに不可能である」と。彼女に会わないように努力した、現実から遠ざかるために。
 しかしダフィー氏は、結局現実から逃げ切ることはできない。自我に絡み付く実人生から逃れることは不可能なのだ。それを気づかされたのが「痛ましい事故」の新聞記事だったのだ。逃げても逃げても逃げ切れない事実が追いかけて来る。現代が生み出した、新聞記事という容赦ない残酷な言葉の悪魔によって。それはダフィー氏に吐き気をももよおさせた。
 彼はかつての夢想の「思い出」の中を這うように、彼女の幻影を追い求め街を彷徨う。たわいもない現実を抱えた市井の労務者たちがたむろする酒場に入り、彼は想いを馳せる。「彼女との日々を思い起こし、今抱く二つの面影を交互に呼び起こしながら、彼は彼女が死んだことを、もはや存在しないことを、一つの思い出となってしまったことを理解した」―「今抱く二つの面影を交互に呼び起こしながら」とはむろん現実と虚構それぞれのシニコウ夫人のことである。双方は合わさって「一つの思い出」となった。あたかも彼の中で徐々に現実との和解が始まりつつあるような叙述である。「女との欺瞞の喜劇を演じつづけることはできなかったであろう」と虚構の限界を語る。彼は手探りに現実のシニコウ夫人のことを心の中で思い描き始める―「女がいなくなった今、女が毎晩毎晩、あの部屋で独りきりで過ごした人生がいかに孤独であったかが分る」―実際は分るはずもない。これは彼がたった2回の出会いと新聞記事が伝える生々しい現実から懸命に探り当て継ぎ接ぎで造り出した“シニコウ夫人の心情”である。
 彼は改めて“孤独なシニコウ夫人”を創造し自分の孤独と絡めようとし始めた。一旦壊れた物語の再生のために。そして己の魂の蘇生を願って。
 ついに冷たい夜の闇の中で彼女の幻影は復活する―「あの女が近くにいるような気がする。ときおり一瞬、女の声が耳にふれ、女の手が己の手にふれる気がした」―自ら必死で拵えた幻覚ともいえるシニコウ夫人の描写は、涙ぐましいものがある。やっと出来上がった幻の祭壇に向いダフィー氏は懺悔の言葉を捧げる―「なぜあの女に死を宣告した」
 彼はこれで贖罪を完遂できたのか。いや、彼には永遠に罪を贖うことはできない。それは彼自身が何も捧げていないからでも、現実の罪が存在しないからでもない。彼女の魂をいわば神にかわって再生させてしまったからである。己で拵えた仮構の罪を己自身で贖うというメビウスの帯のような自己欺瞞に陥ったからだ。彼はそれをすぐ覚って「己の倫理観がこなごなに崩れ落ちるのを感じた」のである。これはすべからく物語作者の宿命である。彼らはときに救いという恩賞をもたらす“倫理”を超越した苦しみの中で耐え続けなければなければならない。もちろん、死後も…。
 ここで彼は無限地獄の闇に落ちきってしまったのか。いや違う、実はそれどころかここでかえって彼自身の魂はここから急激な飛翔を始めるのである。
「こなごなに崩れ落ちるのを感じた」はずであったのに、すぐあとのパラグラフでは、
「マガジーン丘の頂に来ると、彼は立ち止り、川沿いにダブリンのほうを見やった」という具合に今度は急に高みに立ち、ダブリンの市井の人びとの「人生の饗宴」をまるで“神”のような至高の目線で眺めやるようになる。彼は自らの魂を救済すべく舞い上がったのだ。
 彼の見つめる「塀の陰に横たわる獣たち」とは崇高な精神が築く砦の塀が拒んだ者たちのことだ。彼らはその対価として「人生の饗宴」を勝ちとっている。独り塀の向うに篭り「己の生活の精錬を噛みしめ」ているダフィー氏は、もはや彼らとは隔絶した世界の住人としての絶望的な孤独の中にいる。ダフィー氏は唯一彼らとの微かな絆であった架空の愛すらすでに葬ってしまっている。「塀の陰に横たわる獣たちが己を見つめ、さっさと消えろと望んでいるのがわかる。誰も自分に用はない」外界からの完全な拒絶を受けた絶対的な孤独が彼に訪れる。現実の世界から微かに聞えていた「機関車のリズム」は「あの女」ともに暗闇の中に消えていった。「完璧に静寂。彼は己が独りきりなのを感じた」
―この静寂を破れる者は、もはや彼ひとりになったのだ。

―主人公のMr. James Duffyという名前は、Mr. James Dummyのもじりかもしれない。
―ダフィー氏が住んでいるとされるチャペリゾットという土地は、岩波文庫版やちくま文庫版の注釈・解説によればイゾルデに関係する場所らしく、あたかも男女間の三角関係を暗示しているがごとくに装っているのだ。
―ダフィー氏の部屋には「黒い鉄のベッド」や「石炭入れ」とか機関車を思わせるものが置いてある。その他白い寝具で覆われたベッドや本棚、熟れすぎたリンゴの匂いなど、その後の“悲劇”を暗示する“材料”がほぼすべて揃っている。この話の一切すべてが部屋の中で創作されたものであったとしてもおかしくない、とでも言いたげな叙述である。
―新聞記事以外で直接話法で表現されているのは、シニコウ夫人の「今夜はこんなに入りが悪くてお気の毒!がらがらの席に向って歌うなんて酷ですもの。」というセリフだけである。つまりはこの新聞記事内の事故と客席と隣りの夫人が話した内容だけが事実であとはすべて創作なのである。
―おそらくジョイス自身がどこかで偶然シニコウ夫人が言ったようなセリフを耳にして、中々発表に至らない自らの創作物に通じる悲哀を感じたのであろう。それとこの「痛ましい事故」の記事を結びつけてこの物語を成立せしめたのであろう。
―ダフィー氏の銀行員としての穏やかな生活を叙述した部分は、ジョイスの“こうなっても良かったかも”といったような願望による「自伝」のようにも読める。心穏やかに淡々と日々の生活が綴られるトーンは、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を思わせる。“ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ”と括られてもいいような調子を帯びているように感じられるのだ。
―大量の印刷が可能にした大衆新聞と機関車はともに19世紀の産業革命が、すなわち人間を疎外する存在である科学がもたらしたものだ。
―この話に仕掛けられたジョイスのトリックの性質は、例えて言うならアガサ・クリスティが謎の失踪事件の前に発表した作品を巡る批判や論争と同質のものである。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に柳瀬訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。

ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック