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2010年8月16日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―13―
“A Mother”「母」「母親」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳 〜「母」
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳 〜「母親」
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳 〜「母親」


『母は成功した!』


 "Dubliners"での前作「委員会室の蔦の日」は、男性ばかりの劇であった。アイルランドの「父」ともいえる英雄パーネルが影の主役であり、彼の権威の没落と理念の形骸化がひとつのテーマであった。いわば近代の都市社会での父権の失墜を象徴するような物語であったのだ。
 それに比してこの13作目のタイトルは「母」であり、カーニー母娘という女性を中心に物語が展開していく。当時、父権の失墜とは裏腹に、家庭内における母親の地位向上はとくに都市において顕著であったことは想像に難くない。それは、7作目の「下宿屋」における女将カーニー夫人の強権ぶりにも示されている。この物語に登場する唯一の「母」であるカーニー夫人にもそれは受け継がれている。
 家庭内での「母」個人のそうしたテーマは「下宿屋」で語り尽くされている。この物語において俎上に上るのは、“The Mother”ではなく、“A Mother”としていわば抽象化された存在として立ち現れる「母」である。社会に向けて家族の利益を代表するような存在としての「母」のことだ。だから、家族に対する愛情や憎悪といった感情の入る情実的な場面は見事に割愛されている。(カーニー家の母娘や夫婦が言い争いをしている場面において、具体的な記述をさけて突き放したような表現になっているのもそのためである。)
 「父」という存在は、家族の利益を代表する社会的表現の発現者となることは不可能である。家庭内における「父」の地位が失墜したとしても、社会的にはあくまで本人自身、単独の利益を表出しているからだ。現在においても、それは根強く続いている。“仕事”上の関係において、家族の利益を代表するような立場はとれない。そこに見えるのは、家族の構成員であることを捨象された単独の個人でしかない。家族のことが職場で言及されるにしても、それは単に本人に付随した情報に過ぎない。積極的な興味の対象とは成り得ないのだ。髪型や趣向、身につけているネクタイや靴の話をしているのに等しい。
 近代の都市において家族は社会的地場を失って孤立化し、漂流しているような状態である。そのような中で一家の舵をとる「母」は、自身ひとりで娘の利益を守り、将来を切り開くための教育を施す義務を押し付けられる。そこでは自助努力に頼るしかない。そのような場面において社会というものは、自然を相手にするように理不尽で不条理な存在となる。この物語の主体は「母」であるカーニー夫人個人には限られていない。“The Mother”ではない。都市社会における“A Mother”[母親というもの=母親一般]が、主役であるのだ。

 物語自体は、まず〈アイルランドに勝利を〉協会の副書記ホロハン氏の行動を基点に動き始めている。音楽会は、一定勢力からの社会的要請に基づくものであったのだ。だから、そもそも個人や家庭の利益や出世、栄誉に利するためのものではなかったのである。ホロハン氏が音楽会の話をカーニー夫人に持ちかけてから、話は転がり始めたのであって、その逆ではない。カーニー夫人は、表面的には巻き込まれただけに終ったともとれる。彼女には最初から積極的に音楽会に参加する意志があったわけではないのだ。
 ところが一旦話が進みだすと、主客が入れ替わりカーニー夫人の方がかえって、音楽会に対する期待と情熱を強く傾けるようになる。受胎した母体のごとくである。ホロハン氏に、一個人としての情熱は一切ない。単なる媒介であるから。ただ、彼が、カーニー夫人に確実に情熱の種を植え付けていったのは事実である。
 ホロハン氏は、片足が悪く跳び歩きしている。彼の跳び歩きは、当事者意識を失いながら社会の一構成員となってしまっている、偏った人格の現代人を象徴しているのだ。ホロハン氏は、アイルランドの民族運動に熱意があるわけでもなく、音楽にも関心がない。協会のための利益を優先するのかと言えば、そういうわけでもない。カーニー夫人に助言を求めているようでいて、結局はそれを活かしてもない。それではなぜ、カーニー家に通っていたかといえば「デカンター」にありつけるからである。
 カーニー夫人が権利を主張する「契約書」の内容について、ホロハン氏は自分に都合のよい解釈に留めた読み方をしている。彼にとっては、音楽会の伴奏をすべてキャスリーン・カーニー嬢が行ってさえくれればよかったのである。契約書の作成はカーニー夫人に任せていて、彼自身は積極的に関っていないから頭にも入っていない。だから、8ギニーという対価についての認識は全く欠如していたのだ。
 彼は当事者意識が欠如しているから、不定見であり無責任な行動を躊躇なくとることができる。ホロハン氏は、まずフィッツパトリック氏なる人物を身代わりに立てようとする。彼は単独では何もできないのである。しかし二人ともなれば、ますます当事者意識は薄まる。
 契約書の正当性や慣習上の制約があるにしても、彼らは当日において一度は休憩時間に払うと言明したはずである。それを理由もなくすぐに反古にしながら平然としている。音楽会の第一部が終ったあとになって、残りの半分にあたる4ギニーの支払いは後日にすると言いだした。そもそも半分を4ギニーと言っていること自体が不当である。とりあえずといって、カーニー夫人が無理矢理に受け取らされたのは、1ポンド紙幣4枚だったはずである。[紙幣を4枚受け取ったカーニー夫人が、「(これを半分というなら)4シリング足りない」と言っている。1ポンド=20シリング、1ギニー=21シリングだから、つまり4ポンド=80シリング、4ギニー=84シリングとなり、8ギニーの半分というにはカーニー夫人の主張どおり4シリング足りないわけである。ジョイスはこういう場合、子細をはっきり記さない事が多い。]

 この物語のもう一方の重要な主役は、実は音楽会で演奏される“音楽”そのものである。前作で言えば、それはパーネルの魂に該当する。
 人の心を潤し、あるいはまた高揚に導くはずの音楽は、人びとの功利や都合で様々な扱いを受ける。国威発揚や、民族運動のためという冠を被せられることもある。音楽を生業としている人びとが利益を売るための手段とするのは当然としても、そのための提灯記事が、演奏に込めた最低限の情熱をも貶めることになる。カーニー家にとっては、娘を売り込む場でもあった。ヒーリー嬢とてそれは同じこと。(彼女が、キャスリーンに代わって伴奏したのは、カーニー家への裏切りというにはあたらない。彼女が伴奏しなかったとしても、カーニー家にはもはや影響はない。むしろ、損害を与えずに済んだことで、結果的にすべての人びとにプラスにはたらいた行動ともいえる。)

 音楽会で演奏される“音楽”にとって、ホロハン氏は少しも役には立たないのに、その生命を左右する存在となってしまっている。しかしホロハン氏にとっては、結果は芳しくなかった。音楽会は集客という面では不成功に終った。音楽会を記事に書くオマッドン・パーク氏から、ビタ一門払う必要がないと指摘されたカーニー夫人への支払いも、満額ではないが半分近くの金額を支払う結果となってしまった。彼の腹を痛めたわけではないのだから、オマッドン・パーク氏なる一種の“業界ゴロ”からの指摘を聞かなければ、それはカーニー夫人への憎悪には繋がらなかったはずである。その点ではホロハン氏に同情の余地がある。
 一方、オマッドン・パーク氏は、まさに悪魔的存在である。音楽会にハイエナのごとく巣食っているだけだ。翌日の彼の批評が良かろうが悪かろうが、当日の演奏の価値には何の関係も、影響もない。彼は酒をあさり、現場の混乱に拍車をかけ、それでも万事丸く収まったような言い方をして涼しい顔をしている。ホロハン氏が先天的にバランスを欠く人格をしているのに比して、オマッドン・パーク氏は傘で体を支えるごとくに、その場限りの狡猾な動きにより社会生活をバランスよく渡り歩いているのだ。近代が生んだ自己目的のみを追求する、悪しき合目的性の権化といえる。
 “音楽”(芸術)が社会性をもったとき、常にこの両名のような人格にその神聖さを穢される危険を孕んでいる。彼らは放っておけば芸術をどこまでも貶める存在だ。しかし、彼らの“悪業”から生じた毒は、皮肉にも新たな情熱を生みだすことになる。
 それらの毒を中和させ、新たな生命を芸術に吹き込む力は、実は、名誉心や報酬から得られるものである。近代の理念なき社会で、芸術が情熱を失うことなく偉大な生命を持ちつづけるには、それらの与える恩恵がもたらすエネルギーが欠かせない。

 「あなたとはまだ終ってませんからね」というカーニー夫人の捨てゼリフは、彼女の尽きぬ情熱の現れである。それは、何ごとにも無感動であったホロハン氏の肌をも燃やすほどの熱さをもつ。――もっとも最後に「きみの対応は適切だった。」というオマッドン・パーク氏の言葉にホロハン氏は冷水を浴びせられることになるが。「適切」という言葉は情熱を覚ます、中庸というものが放つ猛毒を持っている。(使用例:適切に処理する)

 カーニー夫人は、結局、娘をデビューさせ、一定の支払いも受けた。音楽会の失敗をよそに、彼女こそは成功に終ったのだ。彼女の“不満”は、これからこの一家が社会の中を進み行く原動力となる。彼女はまさに、新しき情熱の「母」となる。
 カーニー家は平凡な一家だが、優しい父としたたかな母、彼女に育てられた気丈夫な娘のいる立派な家庭といえる。こういう家族に、この後の20世紀の芸術は支えられていくことになるのだ。

 この物語も前作と同様に、利害やお金にまつわる人間心理を扱っている。とはいえ、欲望に関しての、前回は男性、今回は女性という具合に、その心理の性差を描きわけているというわけではない。
 欲望に対する心理を試されているのは実に「読者」である。ここに描かれている物語の顛末を損得勘定の俎上に乗せるしたたかさと、それに絡む芸術の在り方を見つめる情熱と、それらを総合する冷静さが、同時に読者には求められているのだ。それこそは、現代の読書人に課せられた義務である。


注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に米本訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。

ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
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Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック