トップページ > ジェイムズ・ジョイス > 「ダブリン市民」〜蔦の日の委員会室/委員会室の蔦の日

2010年8月8日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―12―
“Ivy Day in the Committee Room”「蔦の日の委員会室」「委員会室の蔦の日」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳 〜「蔦の日の委員会室」
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳 〜「委員会室の蔦の日」
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳 〜「委員会室の蔦の日」


『委員会室には、なぜ栓抜きがないのか?』


 これは“市会議員選挙事務所”である委員会室を舞台とする“ジョイス一座”の演じたお芝居である。“ジョイス一座”は、"Dubliners"のこれまでの11作に登場してジョイスがその内面を嘗め尽くしてきたダブリンの様々な人格をもって構成されている。単数の人格の内面を冒険する旅を終えて、複数の人格が織り成す社会の様相を描こうとするものである。人は道を辿って旅をする。今までダブリン市内の多くの通りが登場してきたのはそのためだ。人びとが集い語らうのはひとつの部屋である。今度はそこが彼らの舞台となる。
 “選挙事務所”は社会の縮図を描きやすい。なぜなら、人びとの利害と理念が交錯する場所だから。訪れる人はそのいずれかに振り子のように揺れ動いて身の置場を逡巡する。それはあたかも地獄の門をくぐり抜けて裁きを待つ人びとの群れにも見える。

【留意すべき実質的な問題】
 話は“選挙”でのいわゆる“買収”をめぐるものである。票という個人の意志を金で買う行為は、(法規上の問題や倫理的に良いか悪いかは別として)その限りではひとつの取引である。対等で自由な関係を前提としている。一過性のものであり自分から公表でもしないかぎり政治的・社会的意味もなさない。毎回の選挙で候補者を選ぶ際の尺度・基準として再度リセットできるものだ。
 ところがこの話において結局金は支払われないのである。これは候補者側が、登場人物との対等な関係を認めていないからである。かわりに彼らに供されるのが1人に1本のスタウトである。
スタウトとは利権のことである。候補者側が望むのはこれによって始まる彼らの従属的関係である。彼らはこれを飲まないうちは少なくとも自由でいられる。しかし、一口でも飲んでしまえばたちまち候補者側の“利害”関係の内側に取り込まれてしまうものだ。結局“利害”関係に従属せざるを得ないことになるのだ。
 金は普遍的価値を有するものであるから流通が可能なのであり、貰ってしまえば1票を与えるだけで済む。自由に使用出来る価値だからだ。一方、スタウトを飲む“行為”によって得た価値は交換のできないものである。その価値はその場で各自の意識の中に消えてしまうものだ。ところが、その候補者の供したスタウトを飲んだという行為に対する代償は1票で済むものではない。それは双方が感じることだ。スタウトを与えた側は1票以上の働きを期待するし、飲んだ側は自分の意志に代わる1票を与えた価値や、票の取りまとめの労苦をスタウト1本以上に見積もるはずである。ここに永久運動のようにお互いが損得勘定を繰り返し、それに縛られ続ける、地獄のような“利害”関係がスタートしてしまうわけである。たった1本のスタウトを飲むことが、悪魔に魂を売ったがごとき行為になるのだ。

【留意すべき霊的な問題】
 度々登場する火について―。火には3つの面がある。ひとつは人や物を焼き付くし葬り去る“地獄の火”。もうひとつは人びとに暖をとらせて生きるエネルギーを与える“生命の火”。あるいは人間の小さな理性の光が自我を灯す微かな明かりである“理知の火”。さらには熱き炎で邪悪なものを祓う“浄化の火”である。どれも同じひとつの火であるが、いずれの力を発揮するのかは扱う人間の心によって決まる。同じ暖炉の炎であっても、ジャック爺さんが自らが起したものと、ヘンチーの指示で起したものでは全く異なる意味を持つ。
 現実的な意味では、火は生命力、活力のことである。その人の生命力の強弱の度合いを示している。それがあたかも外在的なもののように表現されているのである。この力も、当然使う人の心を反映した方向を持つ。
 パーネルの霊について―。民族の英雄であるパーネルの霊が、物語のそこここに見え隠れする。それは、実際に存在するものでなく、それを感じてしまう人の心が描き出すいわば虚構である。霊の感覚は人の心の平安にも繋がることもあるが、人が集まるところに芽生えると、霊を装った他者の意志にいつのまにか惹き込まれてしまう危険性を持っている。

【物語の主体】
 この話の人間の形をした主人公は、3人である。彼らが順番に主役をつとめる。最初の主役はミスター・オコナーで、彼は一般的なダブリン市民の心性を持っている。迷える無垢なアイルランド人の代表である。利害にも、理念にも心を動かす。2番目の主役はミスター・ヘンチー、彼は利害に聡く、状況によっては理念を重んじるふりをして憚らない。したがって現世で社会を統率するリーダーの資格を有している。
 3番目の主役はミスター・ハインズである。彼は理念の側に立つがその空虚さも知っている。そこに彼の悲劇がある。彼が登場するのは3人のなかで2番目であるが、一旦舞台から退場した後に再び3番目の主役として現れる。“英雄”詩を朗読して主役としての輝きを放つのである。しかし理想を描いたつもりの詩を朗読することによってかえって、偶像崇拝に堕した英雄像を築いてしまったことに気付いてしまう。そして最後に絶望的な虚無感に取り憑かれるのだ。実は3人のなかで一番罪深いともいえる人物なのである。もちろん彼の実体はジョイス自身である。
 表舞台には登場しないが、“利害”という概念を表象する市会議員候補者ティアニーと、“理念”という概念を表象するアイルランドの英雄パーネルが、隠れた対立軸として存在している。彼らは人びとが描いているそれらの概念に人格が与えられたものである。“神話”でよくそうするように。だから実際の本人たちとは関係がないといっていいくらいである。
 ジャック爺さんは、現世の人びとと死の世界との交流を仲立ちする“精霊”だ。アイルランドの現世の人間を守る“守護精霊”である。一見俗物的な態度や物言いに、その神聖な姿を潜めている。しかしやがて堕落する。
 実際上、現実の人格としては、中立的な無私の立場の人間ということである。中立な立場を保てるのだから無垢ではない。だから、いわゆる“人格者”ということを意味するものではない。彼は老人でしかも単に管理人である。選挙でどちらが勝ってもよい立場である。当事者ではないのだ。無私とは、“利害”の外にいる人物は中立に成らざるを得ないという意味である。だが現実には結局利害の中に取り込まれていくことになる。

【委員会室とは何をする場所か ―神話的、霊的な意味において】
 表向きは選挙事務所である。しかしその正体は悪魔が“魂”を選別する場所である。それはここ一箇所だけではない。他にも同じような選挙事務所がある。どこも同じ設えをしている。必ずあるのが暖炉とスタウトである。暖炉の火は、本来なら“地獄の火”が灯されている。訪れた人びとにはこのスタウトが供されることになるが、栓抜きはない。人の意志で栓を開けることはできないのだ。それは地獄の見立てにより決まる。スタウトは暖炉の棚の上に置かれる。その人の心に隙ができて魂が悪魔の手に落ちそうになると、炎の熱がその人の瓶に伝わりまず「ポック」と音を立てて栓が開く。これは魂に対しての誘いの声である。この誘惑に負けて瓶を手にして中身を飲んでしまうと、その人の魂は悪魔の手に落ちたことになるのである。飲み干すと空の瓶が残る。これは魂の抜けた肉体を表象するものだ。悪魔の戦利品である。
 ところがこの「委員会室」だけは違う。「委員会室」とは英雄パーネルが裏切られた場所と同じ名前であって、その霊が宿っている。ここの管理人には“精霊”が宿っており、悪魔の仲間を装いながら“地獄の火”に代えて、ここだけには“生命の火”を灯そうとしているのだった。
 この日はパーネルの命日であり、アイルランドの迷える子羊の代表であるミスター・オコナーの魂を救済するために、“精霊”である管理人のジャック爺さんはいろいろ工作をすることになる。この物語に入る前に爺さんがまず行ったことがスタウトの隠蔽であった。この日までに爺さんとオコナーの2人分のスタウトの瓶が既に届けられていたが、爺さんはそれをテーブルの下に隠していた。2人の魂を守るためである。(この2本のスタウトはあとで重要な役割を担うことになる)
 この部屋はテーブルに2本の蝋燭を立てなければならない程、暗いからほとんど見えないはずだ。後に記すようにテーブルの上や下で何らかの工作をしても見られる危険が少ない。

【委員会室とは何をする場所か ― 実際上の意味において】
 先に述べたように“選挙事務所”は、人びとの利害と理念が交錯する場所である。この委員会室もそうである。ただ「委員会室」という名が付けられているが故に“パーネルの霊”という人びとにあらぬ幻想を抱かせてしまうのである。これはまた人の心の孤独がなせることでもある。理想や理念といった概念もまたしかりである。それは、しかし現実にそれは人の心を動かし得る。そうしたことの突出した場所であるこの「委員会室」が舞台として選ばれたのである。
 この選挙事務所は、“利害”関係を選別させる場である。先に述べたようにスタウトは利権のことだ。飲むか、飲まないかで、本人の意志を度外視して運命が決まってしまう仕組みになっている。それを“神話的”な形態に即して表現すれば“悪魔の誘い”といった叙述になるわけである。その感覚を作者が欲するのはもちろん人の心の奥深くに染込ませるためである。まさしくいにしえの神話と同じである。
 さて、ジャック爺さんであるが、彼がスタウト2本を隠蔽したのは“こっそり”飲みたいからである。ティアニー候補側にはっきり知れるように飲んでしまっては恩に着せられる。テーブルの下に隠しておき、あとで持って帰って自分の家で彼らに見つからないように飲めば、自由でいられるのである。ここに栓抜きは置いていないのはこの場でスタウトを飲ませないためである。少年があとから追加で持ち込んでもここで飲めなければ、持って帰るか、たかだが1本のスタウトだから置いていく可能性もある。
 当然オコナーの分まで飲むつもりでいた。それが結果的にたまたま彼を“利害”関係の外に置くことになってしまったということに過ぎない。
 
 そうして、この舞台が整ったのである。

【神話】
 ジャック爺さんが「ボール紙の切れ端で燃え殻をかき集め、白くなりかけた石炭の山の上に巧みに載せた」のは、消えかけている英雄パーネルの霊を弔う火を再び蘇らせその霊を命日の日に呼び込んでいるのである。
 やがてその姿は、ミスター・オコナーの前にはっきりとした像を結ぶ。「そのかがんだ影法師が、向かいの壁に立ち上がり、その顔がふたたびゆっくりと光の中に現れた」― それはジャック爺さんの影ではない。“英雄”の霊が姿を現したのだ。消えかけた炎は、霊を呼び込むほど充分に燃え上がったのだ。―「これで前よりええでしょう、ミスター・オコナー。」
 オコナーは、灰色の髪の毛をした顔の歪んだ若い男だ。灰色はどっち付かずの状態を、顔の歪みは迷いを、それぞれ現している。しかし、オコナーは霊の照らす光を受けたことで勇気を得る。「ミスター・ティアニーはいつ戻るか話していたかい?」と彼がミスター・テイアニーの所在をジャック爺さんに訊ねたのは、テイアニーの選挙宣伝カードに火を灯すために用心しているからである。おどおどしているのである。応援しているはずの彼が、選挙宣伝カードを燃やすのを見られるのはまずいからだ。裏切り行為に思われてしまう。
 ティアニーのカードを破り燃やすことは、彼らの“利害関係”から離れて自由な立場に立つことを意味する。それは霊の見えない導きによるものだ。暖炉の火で灯された煙草の火は、主体的で自由な自我がめざす視線の先を照らす“理知の火”が灯す光を象徴しているわけである。理性のことである。理性を持つには勇気がいる。それを霊が後押ししたのだ。
 煙草の炎は「蔦の葉」を照らし出す。「蔦の葉」は英雄パーネルを意味する。その霊がジャック爺さんの口を借りてつぶやく。ジャック爺さんが我が子の話として嘆くのは、実は英雄が自分の後に続くべき国民への失望の言葉が隠されている。ジャック爺さんは霊の心を映す鏡となったのだ。
 ジャック爺さんの19歳というこどもの年齢は、パーネルがアイルランド選出議員によりイギリス議会へ打って出た年から19年ということだ。酒に溺れ仕事についても酒代に費やしてしまうこどもとは、怠惰なアイルランド国民のことを指している。奴らは指導のしがいもなく裏切られたと。「年さえとっていなけりゃ、やつの根性をたたき直してやるんですが。監督できるものなら、ステッキであいつの背中をぶちのめしてやるんですがねえ――昔やったように」とは生前強権的であったとされるパーネルの政治的手法を指す。「ですが、母親があれこれとやつを甘やかすもんで…」の「母親」とは、聖母マリアを高く敬愛するカトリック教会の信仰のことである。パーネル自身はカトリックではなくアイルランド国教会に属していた。しかもカトリック教会からの激しい非難も浴びている。
 ジャック爺さんに取り憑いたパーネルの霊は“理念”を離れ、憎悪に燃える“自我(エゴ)”を抱え込んでいたのだ。暖炉の炎がいまだ“地獄の火”であったからである。パーネルの霊は“地獄の火”に燻し出されて邪悪な自我の姿となって現れた。なぜなら彼は正当な弔いを受けていないからである。
ジャック爺さんはパーネルの霊によるオコナーの救済を期待したが、失敗に終った。死者の霊に、老人の肉体を通して未来を語らせることはできない。生きて理想に燃える精神を持った若い肉体がこの霊には必要なのだ。

 そしてこの時、パーネルの霊は現世にいて理想に燃えるミスター・ハインズに乗り移ったのである。
「暗闇で何をしているんだい?」とハインズは問いかける。オコナーが再び闇の中で迷いはじめているのを見たのだ。「背の高いすらりとした若い男で、淡い茶色の口髭を生やしている。雨の小さな雫が帽子の縁から落ちそうで、上着の襟がまくり上げられている」と勇ましい姿である。霊に未来を語らせるに相応しい、若く理想に燃える精神を持った人物に見える。ジャック爺さんの手でハインズに灯された2本の蝋燭は、憎悪に燃える霊を鎮める“浄化の火”の炎である。
 ハインズはまずオコナーが悪魔に魂を売ったのかどうかを確かめる。「やつは支払ってくれたのか?」と。「まだだ」という返事が帰ってきても、ハインズはしかしまだオコナーを信用してはいない「いや、支払うさ。心配するな」と笑いながらからかい気味に言う。オコナーはまだどちらにも転ぶ子羊であるから。
 パーネルの霊は、ハインズの理性的な言葉の力を借りて、オコナーに対する啓蒙を始める。真の理性を目覚めさせ魂を悪魔から守るために。
[ハインズの啓蒙教室の講義内容]
 ハインズはコールガンという労働者の候補を誉め讃える。彼は「善良で正直な煉瓦職人」であり「きみらがかついでいるこちらの人物は、儲け口にありつこうとしているだけだ」とまでいう。コールガンが無私の人であるのに対して、すなわちティアニーは「儲け口」のため、つまり自分たちの利益だけのために生きていることを指摘したわけだ。※1
 それに対してオコナーは「きみの言う通りだと思う」とすぐに日和っている。完全に得心しているわけではないのだ。あまり優秀な生徒ではない。主体性の欠如したこの言い方には、まだ充分に悪魔に与える隙を心に有していることが現れているとハインズは感じたに違いない。
 ハインズは続けて言う「労働者はひどい目に遭わされっぱなしだ。しかし生産はすべて労働によるんだ」―― これは現実からすれば誤謬である。生産は資本と労働から成る―― しかし、ここでハインズが言いたかったのは労働者が対等な関係から排除されているということである。
 しかしそれは裏を返していえば“利害”関係から自由であることでもある。そこに労働者の可能性がある。彼らは「肩書き付きの人にぺこぺこする」こともなければ、「自分の息子や甥や従兄弟などに、儲け口を探す」なんてこともしない。
 ところがここに「外国の王さまにぺこぺこ」しようという話があるとハインズは言い出す。もちろんティアニー候補のことを言っているのだ。それは国全体が“利害”関係の支配下に置かれることを意味する。オコナーは、ティアニーはそんな行為に賛成しないだろうと言うが、「どうかな?」と即座にハインズにそれを疑問視されるとまたすぐに「確かに!きみの言う通りかもしれない、ジョー」と日和る。ふらついている。
 結局、ハインズの話を聞いて、オコナーの思い至ったことはこうであった。―― ティアニーのことは信用できないかもしれない。最後まで信用できるのは結局“金”だけだ。オコナーはこう言ったのだ。「とにかく、現なまを持って来てもらいたいもんだ」
 ハインズの講義にもかかわらず、オコナーの意識は結局“金”をもらえるかどうか、から一歩も出なかったのである。理論で理性に訴えるのが難しい。やはり理想を人の言葉で語るだけでは人の魂を惹き付けることはできないのだ。
 それぞれ別々のむなしさを抱えながら、そのあと黙り込んでしまうことになる。 
 やはり、霊のパワーが再び弱り始めている。そう考えたジャック爺さんは「石炭殻をさらにかき集め始め」て火を起す。ハインズの「襟に挿した蔦の葉」となってそれは現れた。しかしジャック爺さんの「昔はよかった」「あの頃は活気がありやした」という過去を懐かしむ言葉ばかりがむなしく響く。――「部屋はふたたび静まり返った」

 ここに現れたのがミスター・ヘンチーである。彼はオコナーと対称的な人物である。“欲得”で動く現世の人間を代表している。オコナーと異なり理念にも一切見向きもしない実際家だから迷いがない。ティアニーと同質の人間である。だが悪魔とは組んでいない。オコナーにはない強い意志の持ち主なのだ。ハインズを理論家とすれば、ヘンチーは実際家である。実戦的、合理的に動くからかえって悪魔のつけいる隙がない。それは取りも直さず、理論家や弱った霊より現世的な力を有しているということを意味している。
「金はないよ、諸君」といきなりヘンチーは言う。―― これは厳密にいえば「諸君(に払う)金はないよ」である。金を仲立ちとした平等な取引を結ぶ気はないということだ。候補者ティアニーが、票集めの運動員と対等な関係を望んでいないことをヘンチーは告げたのである。ティアニーは頼れないぞと。ヘンチーはティアニーにとって代わるつもりなのである。もちろん彼には悪魔の力を借りる気はないし、悪魔の手のうちも知っている。彼が、鼻をすすり冷たい耳をしているのは、悪魔の手により魂を惹き込まれそうになったからである。狡猾な彼はこの時点で悪魔がスタウトを利用して魂を手に入れることも知っている。
 ヘンチーは火の上でさかんに手をこすり合わせて、ジャック爺さんに石炭を所望する。冷えきった体を温めたいだけでなく、あとでスタウトの栓を開けるのに利用するために。彼がこのとき目論んでいたのはどんなことか。彼は悪魔のやり口を逆用しようと考えたのである。ヘンチーには野望がある。そのために自分の役に立つ人間を選別する方法を思いついたのである。彼にとっては悪魔の誘惑に乗る人間は役に立たない。現実的にいえば目の前の“利害”に簡単に振り回される人間は信用出来ないということだ。
 ジャック爺さんが石炭を取りに部屋を出る。一瞬ではあるが、ここで初めてこの部屋からジャック爺さんがいなくなったことになる。ヘンチーはこのときはまだ、ジャック爺さんのことをティアニーの単なる手先だと思っている。だからジャック爺さんのいない隙をつき、オコナーにティアニーの悪口を徹底的に吹き込んで、迷いの多い彼の気持ちを留めようとしたのだ。
 ジャック爺さんが戻って石炭を火に載せる。この火はもはや“ヘンチーの火”である。“生命の火”ヘンチーの現世的活力が勢いを増したのだ。ティアニーの本質を見抜いているヘンチーを見届けたハインズは、実際家である彼にしばらくこの場のあしらいを任せた方がよいと判断して、部屋から出て行ったのである。ハインズと共にパーネルの霊も部屋を出る。悪魔との対峙をヘンチーに委ねようというわけだ。
 ハインズの言った「エディ王が来れば大丈夫だよ」は、ヘンチーに向けた言葉である。ティアニー一派が「外国の王さまにぺこぺこ」するのに賛成したわけではない。国の魂を売るような行為はいけないが、イギリスから金や資本がやってくるなら、それはアイルランドに幸福をもたらすことに繋がるということを実際家にヘンチーに暗に示したのだ。自分が理想を語るより、利に聡いこの男はいずれそのことを自然と理解するはずだと思ったのだ。
このときオコナーは煙草を火に投げ込んだのは、せっかく身に付けた“理知の火”を放棄したということである。霊の導きが無くなったあとであれば当然である。しかしこの後にオコナーは何度か自分で煙草を口に持ってくるし、実際に火を点けたりもする。ハインズへの同情の言葉を口にしたりして徐々に主体的な意識を持ち始めるようになるのだ。
 それに続いてヘンチーはその火へと鼻をすすり唾を吐く。自分の中にへばり付いていた“悪魔の残滓”を吐き出したのである。その炎はもはや生きるエネルギーに満ちた“生命の火”である。“悪魔の残滓”は“生命の火”に「じゅうっと抗議の音を立て」させ、炎が「消えそうに」なるまでにしながらも朽ち果てた。
この部屋にヘンチーの憂いは無くなった。今度はハインズの悪口を言い始めた。オコナーを自分の側に引き込もうとして。ジャック爺さんもこの場では追従する。ハインズの考えと同じである。この部屋を一旦ヘンチーに委ねるためである。
 ところがここでたいへんに重要なことは、ヘンチーのハインズに対する批判的な意見にオコナーが疑問を差し挟んだことである。「ジョー・ハインズは正直な男だと思いますよ。賢くさえあります、ペンを持たせるとね。彼が書いたものを覚えていますか……?」オコナーにはハインズの説いた意味を理解していたわけだ。
 彼が主体的な意思をもって主張するのはこれが初めてである。彼は“理知の火”を自在に使い始めたのである。ハインズには“ペン”で表現できる上滑りの理論は持ち合わせてもそれを生かす炎、すなわち活力を持っていなかった。霊の力で実現できるのは過去への郷愁の想いだけである。オコナーはそれでも理想を掲げるハインズを支持したのだ。
 それに対して、ヘンチーはハインズの筆がたつのは売国をいとわない知恵者だからだという。国を売り利益を得る輩であると。今度はジャック爺さんにまで「それはわかりませんよ」と疑問を差し挟まれてハインズは口ごもる。この部屋が悪魔や霊の手から逃れて、それぞれが自立した思考に向かい始めたからである。

 いよいよここから“スタウトをめぐる魂の争奪戦”が始まるのである。

 人の魂を操るスタウトは意志のないところでは悪魔の手にある。それがいまや、霊がもたらしていった、主体的な思考が可能にする“理知の火”と活力を生む“生命の火”が揃い、それを掌る人間が現れたのである。武器を手にした彼ら3人は悪魔と対峙する戦士である。
 現実的な観点からすると3人は近代市民としての自覚を持ったということになる。

 ところがそれが一変する事態がここで起こることになる。その事態とはキオン神父の登場である。彼の登場により彼らに利権獲得の期待が高まってしまうことになるのだ。そのために彼らの意識はそれぞれに大きく変化する。悪魔からの直接の誘惑にかられたようなものである。

 ここで突然現れるキオン神父とは何者か。ミスター・ファニングを探しているというが、それは口実である。彼はスタウトを探しにきたのである。飲んだくれの似非聖職者なのである。現実的には利権あさりの堕落した教会を指している。
“利害”関係の元締めであるティアニーがそれを許しているのは、聖職者による権威付けとともにスパイと密告をさせるためである。この部屋を訪れたのは両方の意味があるから「失望」と「喜び」の表情が同時に現れたのである。
 ヘンチーは彼が帰ろうとする後姿に対して“浄化の火”である蝋燭の光を浴びせる。邪気を祓うように。オコナーは煙草の火を点けて再び“理知の火”を今度は自らの意志で灯す。事態を3人で考察するために。だがすでにそれらの炎が彼らの心の変化により、神聖なものから邪悪なものへと急速に変異しつつある。
 このとき、実はヘンチーたちはスタウトの到着が近いことに気付いたのだ。ここで3人の意識は大きく変わってしまう。それぞれに別々の欲望が芽生える。
 ヘンチーはスタウトを我が物顔に支持者たちに振舞うことで利権を横取りできる。悪魔に代わり魂を手に入れることができるのだ。そもそも自分自身も利益誘導的な選挙応援に長けている。権力奪取への道が開けたわけだ。彼は自ら市長になることを現実視し始める。
 オコナーはそのしり馬にのることで労せずして利権の一部に預かれる。「個人秘書」してくれとはそういうことである。その上ヘンチーがキオン神父まで取り込もうとしているのは、スパイや密告に使えるとともに利権を嗅ぎ付けるに敏だからである。
 ジャック爺さんはちょっと事情が異なる。ヘンチーは市長になるには市議会議員に金を払わなければならないといっている。その限りでは市議会議員の有力候補であるティアニーにこのままついていた方が有利に思われる。しかし彼は、市長というものはそれ以上に美味しい莫大な利益に預かれることを市長の門番から聞いた情報で知っている。だからヘンチーが市長になるならヘンチーに鞍替えした方が有利だと感じたのだ。そしてヘンチーにその情報を披瀝しておもねりながら煽っている。
 近代市民としての自覚を持ち、理想の側に立とうとし始めていた彼らだが、利権の甘い誘惑が見え始めたとたんにたちまちにして堕落してしまったのである。
 キオン神父は悪魔からの使者であったわけだ。ここに彼らの物語は実質的には終わりを遂げたのである。ここから先、スタウトが到着してからの話は、その甘い蜜をめぐる道化たちの喜劇によるエピローグに過ぎない。しかも詩の朗読付きといった念のいった舞台である。

 そしていよいよスタウトが到着した。

 スタウトはヘンチーの支持者を生む利権の元である。ヘンチーは悪魔の仕業を真似てその魂のひとつひとつを奪っていく計画である。スタウトは暖炉の棚の上に置き、その人の心に隙ができて魂がヘンチーの手に落ちそうになると、いまや再び“地獄の火”と化した暖炉の熱がその人の瓶に伝わりまず「ポック」と音を立てて栓が開く。これは魂に対しての誘いの声である。この誘惑に負けて瓶を手にして中身を飲んでしまうと、その人の魂はヘンチーの手に落ちたことになるのである。飲み干すと空の瓶が残る。ヘンチーの戦利品となる。
 彼ら3人だけは、栓抜きを使って抜いた瓶から飲む。すなわち自分の意志で飲む自由が彼らには残されるわけである。ただし、爺さんは飲んだふりをしただけである。(そのからくりは後述する)彼はヘンチーに魂は売らずに功利だけ貪ろうと思ったからである。
 あとからやってきたクロフトンやライアンズには案の定、スタウトの出所は知らされない。ヘンチーの振る舞い酒のようになっていく。実質的にはもはやティアニー候補への支持取り付けではなく、ヘンチー自身の売り込みへとすり替わって行くのである。
 オコナーまでが「スタウトを二本開けてくれ、ジャック、」という具合にすでに甲斐甲斐しく「秘書」役を演じている。
 ライアンズが、すわって足をぶらぶらさせているのは、自分の迷いをあえて演出して褒美の獲物を催促しているのだ。それだけ誘惑に弱いことを“地獄の火”は察してライアンズの瓶をまっ先に「ポック」と音を立てて栓を開けたのだ。
クロフトンの方は元々党も異なり、成り行きで支持しているだけで自分の方が立場が上だと思っているから誘惑には感心が低い。だからヘンチーの説得が加わらないと中々栓が開くに至らないのである。
 こうして事実上の選挙演説のスタートとなる。ヘンチーはまず実利上の話をする。さらにはイギリス国王の訪問は資本の流入の効果があるのだということを解く。金を仲立ちとした関係なら自然と対等な関係が築ける、そうすれば国王訪問は儀礼的な意味に過ぎなくなるという理屈を称えるのだ。理念と理想をとなえるはずの選挙演説が、効能を説く商品宣伝のようになっている。現実を反映したものだ。本人の気付かぬ内に選挙演説のパロディになっているのだ。
 秘書のオコナーは演説が功利的な話に終始して、選挙のお題目に必要な理念の欠如していることに気付いて、パーネルの名前を仄めかす。それに対してヘンチーは、パーネルは死んだ。つまりもう理念などみな忘れていると言い、国王訪問は決して従属的な関係を結ぶ意味を生むものでなく単なる儀礼的なものに過ぎないと説く。
 それに対して、儀礼的なものというのならパーネルもエドワード国王もそれにふさわしい人物とはいえないではないかと、言われて彼らは我々と同じ人間なのだからそんなことは水に流せという。すでに権力側に立って答弁しているがごとくに言い訳がましい物言いになってきた。すっかり権力者気分に浸っているのである。
 納得いかないとばかりに、パーネルの素行を攻め立てると秘書のオコナーが助け舟を出す。「あの人が死んだ今、ぼくたちはみんな彼を尊敬している」―― これは理想を語るのは死人に任せればよいということだ。死んだ英雄を祭り上げれば生きた人間が理念をめぐって無意味に争う必要はなくなる。英雄の名前さえ掲げておけば、安心して功利を貪れる。クロフトンにも得心がいって気持ちが傾いたとたんにスタウトの栓が開いたわけだ。もちろん、彼は飛びついた。
 そこへそのパーネルの霊を伴ったハインズが現れる。彼が去る前と様相が一変している。予期せぬキオン神父来訪がこんな結果をもたらしているとは全くの予想外だったわけだ。おまけに彼はパーネル崇拝者ということで歓待を受けることになる。ヘンチーの態度も取って返したようである。彼は死んだ英雄を讃えた詩の朗読を要請される。もちろんスタウトと引き換えに。彼は仕方なしに、あきらめたように立って朗読を始める。
 詩の内容は英雄の理想や勇姿を讃えるものではなく、ほとんどが彼を裏切ったものたちへの蔑みや怨に満ちた内容なのだが、最後には「喜びに掲げる杯に酌み入れよう 一つの悲しみを――パーネルの思い出を。」とある。一見、英雄の魂の復活を願うようなこの言葉は、英雄自身を思い出の中に封じ込めて“神聖化”することで“偶像崇拝”の対象に堕してしまう危険を孕んでいる。実は詩の作者自身が理想や理念を語るだけで、その実践からは距離をおきたいという気持ちが現れていて本人も気付いているのである。空虚な英雄崇拝はしかし、大衆の支持を得やすい。だから「実にすばらしい作品だ」という評価を得られたのである。

[実際上のでき事 ―参考までに―]
 持ってきたのは少年である。彼は常に横歩きだ。スタウトをくすねて後ろのポケットに2本突っ込んでいるからである。ヘンチーはそれをすぐに見抜いた。だから彼をすでにいける口と判断して1本呑ました。「くさびの刃先」とはつまりここでは“青田買い”のことである。
 少年がやってきたときに爺さんは瓶の数を数えた。原文でここの部分は“The old man helped the boy to transfer the bottles from the basket to the table and counted the full tally.”となっている。“tally”とは日本の「正」の字で5を表すやり方に相当する、そしてそのちょうどいいかっきりの数を表す。つまり実際にあったのは10本だったわけだ。本来あるはずの1ダース12本のうち2本を少年がくすねて残り10本なのである。少年は自分で飲んだあと空瓶を他の10本とあわせて返せばバレないと思ったのだろう。先方が1ダースと指定した事実は知るよしもない。爺さんはそれに気付いたが、この際、渡りに船である。テーブルの下に隠しておいた2本を紛れ込ませれば1ダースかっきりでわからなくなる。空の瓶が返らない限り自分が飲んだことにはならないからティアニーへの貸しもなく、すんなりヘンチー派に鞍替えできると思ったのだ。あとから飲もうと思っていたスタウト1本よりそのことの方が今となっては重要である。栓抜きがないから少なくともこの場所で空瓶が生じることはない、と踏んだのだ。
 ところが、ヘンチーは少年に栓抜きをもってこいと言い出した。爺さんは「大きなコップがない」とか言い訳するがヘンチーは聞かない。爺さんがそこで思いついたのは、仕方ないから3本栓を抜いて自分だけ飲んだふりだけして、こっそりまた栓を締めておこうというものだった。どれが開いているか、いちいち気にかける人はいない。栓抜きはすぐに返してしまうのだから。ヘンチーとハインズが飲んだ分の空瓶は2本ということになる。
 やっと解決策を思いついたと思って3本栓を抜いた矢先にヘンチーが少年にも1本飲ませろと言い出した。爺さんは少年には気の毒だが、飲んだのは彼だと伝えなければならないが、まあ仕方がないと思いながら「しぶしぶ一本の栓を抜き、それを少年に手渡した」のである。少年はあとの飲んだ空瓶をテーブルに戻したので、爺さんはむしろこれ幸いとばかりに少年の空瓶の方を持ち飲んだふりをしたのである。
 爺さんが栓をし直した瓶が、クロフトンの瓶である。一度栓を開けたので、炭酸が少し抜けているから熱で栓が開くのに時間がかかったのである。


 このようにしてジョイスは、人が集う場において沸き起こる“理念”や“霊”という奇妙な心性を抽出して、それが結果的に孤独なはずの個人の心に共通して与える影響と、さらにそれが人間関係を通して発展・循環していく様を描き出したのである。

※1 ――ここでのハインズの論理―― “利害”で動くのと、“金”(富)で動くのとは異なる。“利害”関係の成立は“利”と“害”の二者選択を相手に迫るものだ。“利害”関係は永続的な見返りを求め続けるものだ。“利害”関係の成立は、したがって主従の関係となる。
 これに対して“金”(富)で動くということは、相互補完の関係にある。“金”(富)という“普遍的”価値を仲立ちとした対等な取引関係(契約)が成立するからだ。これは主も従もない対等なものだ。しかも、それぞれの関係(取引)は一過性のものである。つまり自由な関係なのである。それは“悪魔に魂を売った”のと、“神と契約を結んだ”のとの違いにも似ている。魂は本来肉体を離れれば自由になれるが、悪魔に売ってしまったらそうはいかない。
(現代日本における親会社と下請けの間が一過性の取引という対等で平等な関係にならないのは、永続的な主と従という関係が“利害”関係として固定されているからである。すなわち、そこに自由はない)

※パーネルに関しては各翻訳本の注釈や解説、および、Wikipediaの“チャールズ・スチュワート・パーネル”の項を参照している。
注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に結城訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。

ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック