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2010年6月27日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―7―
“The Boarding House”「下宿屋」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「下宿屋」


『偽マリアは何を待っていたか!』


 “下宿屋”とは、女将ムーニーそのものである。彼女と一体のものである。つまり“下宿屋”は女性そのものを表象しているのである。ジョイスに限っていえばそれは自分の妻のことだ。
 夫のムーニーはまさしくジョイス自身の将来の姿で、飲んだくれで身を破滅させることになっている。これではいかんということで、今度は十三年も真面目に勤め上げて再挑戦!婿として申し分のない人格のドーラン氏となって現れたわけだ。彼が相手にするのは、女将の分身である娘のポリー。だからやがては同じ運命となるのは眼に見えている。
 この話は、ダブリンの人々の様相を自らの生涯の過去や未来の意識中に広がる世界やイメージになぞらえた物語"Dubliners"の7作目(出版物中の表記順)にあたる。少年期編3作を経て青年期を扱った4作の中の最後のものとなる。主人公が少年期から様々な経験を重ねて遂にお嫁さんがきますよ、といった感じの話だ。幼いときから人生にあまりに過大な期待をかけてるとろくなことにならない。ドーラン氏もいっている「もちろん若い頃には、けっこう無茶もやった。パブで呑み仲間を相手に自由思想を得意がったり、神の存在を否定したりもした。しかしすべては過ぎ去った昔の話……今や(中略)教会の儀式にも参加するし、一年の九割は規則正しい生活をしている。身を固める金もある」―“結局は安全運転がいいと思いました”という作者ジョイスの述懐が聴こえてきそうなドーラン氏のつぶやきである。しかしお堅く生きても結婚相手を間違えれば「すべて水の泡!精勤の努力がすべて無!」となっていまう。ドーラン氏はふしだらな娘として知られるポリーとの結婚に追い込まれたことに深い絶望を味わい「屋根を抜けて天空に昇り、この面倒を二度と聞かなくてすむ別の国へ飛び立ちたくなった」
 それでは、ドーラン氏にこの後の幸福は望めないのであろうか。作者ジョイスは物語をこしらえながらどうやり直してもムダな“夢幻地獄”の幻想を彷徨っているだけなのだろうか。その答えを握っているのは、他ならぬ女将親娘、つまりは彼の生涯のパートナーとなる妻の存在である。もっといえば、人生において初めて登場する他者のことである。少年期における他者とは所詮自意識の延長に過ぎず自己の付属物でしかなかった。それが結婚という形を外部から強制されることで初めて他者と真剣に向き合わざるをえなくなる。(あるいは恋愛においてはそれが内部からの強制によるのだが)そのとき自己の内外から痛切に他者の存在に気付かされるわけである。異性は究極の他者であり、生きる糧とも苦痛ともなるが、自己の真の自立には欠かせない存在である。
 これまでに(先行する6作の中で)異性の存在が際立って意識されるているのは“Eveline”と“Two Gallants”の2作である。“Eveline”では主人公が女性となっているが、実はこの女主人公は作者の自我が変貌した姿で、自分が恋愛と思い込んでいた人生の飛躍を願ってはみたものの、どうあがいても自己撞着の域からの跳躍が望めなかったのである。青春期のいわゆる“恋に恋する”類(自己愛の発展型)のものに過ぎなかったのだ。“Two Gallants”においても二人の主人公は異性の幻影だけを追って街を彷徨うが出会いは果たせず、ただ希望の微かな光のみを見て終っている。―「小さな金貨が一枚、掌できらりと光った」
 いずれも異性との具体的な関係性に発展しておらず、主人公は孤独のままである。それが、この話において初めて生きた異性として主人公(作者)の前に現れる。何気なさそうな小品であるが実はこの作品群全体において、あるいは作者自身の人生においてもとても重要な転換点に位置するのだ。
 だから、実際現れる異性(女性)は衝撃性の強いものとなる。思春期の淡くて青い体験をはるかに超えた異性との新たな強烈な出会い。まずそれが形となって大きく我々の眼の前にノッケから登場するのが女将ムーニー、及び、その大きな影絵である下宿屋である。主人公が出現する以前に読者の展開されるこの強烈な母娘のイメージは、真の他者として出会う異性の迫力を示している。この女将は「屠牛人の娘」であり「ものごとを自分独りにしまいこんでおける女、肝のすわった女」あるいは「肉切包丁が肉を処理するがごとく、女将は道徳の問題を処理した」とそのイメージのもつ凄まじさを最大限に膨らませた女性として我々に迫ってくる。夫のムーニー氏は「職人頭」をしていて婿に選ばれたくらいだから元々は堅実な生き方をしていたのだろう。それが「義父が死んだとたん、夫のムーニーはろくでもない男になりだす」というのは、むしろムーニー夫人の吝嗇が始まったのが堕落の原因であったに違いない。この結婚は父や夫の都合で成り立っていた。彼女にしてみれば男性(異性)から完全に支配された人生だったわけである。ムーニー夫人は父親の死によりその経済的、精神的支配下からようやく脱することができた。“自分は解放されたのだ!”今度は自分がすべてのものを支配するようになる。女将ムーニーは男性憎悪をマグマにもつ最極限の女性像といえる。これがまさに彼女の凄まじさの根源である。夫のムーニー氏は追い出され「金も食べ物も部屋も与え」られず「青白い顔」に「充血して爛れ」た目の乾涸びた容貌となって落ちぶれて行く。まるで、用済み扱いだ。
 夫から部屋を奪ったムーニー夫人は、今度は別の男たちに部屋を貸すようになる。自分の自由になる男を集めた“下宿屋”を始めたのだ。掌の上で自在に操れる男、それは独身男性だ。だから“下宿屋”に転業したわけだ。「彼女は下宿屋を抜け目なくしっかり取り仕切り、…(中略)…下宿している若い男たちは皆、彼女をやり手女将(筆者注:原文では“The Madam”)と呼んでいた」―彼女はこの“下宿屋”で思う存分、男性を愛で、そして復讐することができるのだ。
 “…who was quite able to keep things to herself”…何でも呑み込みそれらすべてを支配するのは、女将ムーニーと同じくこの“下宿屋”の姿でもある。ここは勤め人の独身男性を定住者としながらも、観光客や芸人を浮動客として受け入れている。誰でもどうぞ、といった趣きであるが、主要なお客はあくまで独身男性である。観光客や芸人は彼らを取り巻く社会を形成する道具に過ぎない。観光客はイギリスからの風を呼ぶ。ここが都会なのだと彼らに実感させるのだ。芸人は“親睦会”のときの余興を担当するだけでなく、ときには「落ちそうな女芸人」“a likely artiste”が独身者たちなどにあてがわれたりする。それを“手引きする”のが息子の荒くれ者ジャックで、彼は「勝ちそうな馬」“a likely horse”も手配してくれる。(つまりは売春や賭博の温床になっているわけだ。下宿人ドーラン氏もやがて「下宿屋はなにやら風評が立ち始めている」ことに気付くことになる)すべてを揃え世界の縮図を再現するこの“下宿屋”は、男を懐に収めそれを支配する女将の願望がミクロコスモスとなって現れた自らの映し絵である。さらに女将の淫欲な内面を受け継いだのが娘のポリーだ。彼女は歌う“I’m a . naughty girl You needn’t sham You know I am”「“I’m a . ”あたしは」といいかけてから間をおいて「“naughty girl”やんちゃ娘」とつづくが「“You needn’t sham”とぼけないでよ」「“You know I am”わかってるでしょ」と含みをもたせている。“You know I am”―彼女は誰なのか。ポリーはこの世界の創造主である女将ルーニーから“神の子”を託された“聖母”である。(“a little perverse madonna”「ちょっぴり片意地な聖母マリア」―とあり所詮、偽物なのだが)彼女はそれを“観客”(下宿人)に向けてアピールしたわけだ。女将は最初、“聖霊”を授かるつもりで外に出したが「評判の悪い執達吏」すなわち“devil”悪魔が現れたのでその誘惑を恐れて我が世界である“下宿屋”に引き揚げる。女将はここで“聖霊”が宿ることを期していたが、遂に“ヨセフ”役が現れた。それがドーラン氏である。
 しかし、それはあくまで役柄の上であり実際にはここに神も、聖母、聖人もいない。この“下宿屋”≪Boarding House≫は“劇場”≪Playhouse 又は Opera House≫でもある。娘ポリーの妊娠を確信して「初夏の晴れた日曜日の朝」に女将は“受胎告知物語”上演の幕を上げた。「下宿屋の窓はすべて開け放たれ、レースのカーテンが、上へ開いた窓の裾から通りの方へふうわりと膨らんだ」―“下宿屋”を女体になぞらえるとふうわりと膨らんだカーテンは妊娠した女性の膨らんだお腹のようである。つまりは偽の、あるいは劇中の演出での“受胎告知”を示している。このとき「ジョージ教会の鐘楼が鐘の音を送り出し」たのは戦いの始まりを告げる鐘の音である。「円形広場」が戦闘場を暗示している。舞台装置は揃った。神聖な“祝祭劇”のために、人間の肉体的行為である食事の後の汚れは片付けられ残った食材もしまい込まれる。女将は前の晩の娘との「ぎこちなかった」リハーサルを思い起こす。それはこの“劇”のためのリハーサルというばかりでなく、娘に対する女将の女としての申し送りである。嫁入り前の娘に、妻として、母として、女として、それぞれを複雑に“演じ分けなければならない”これからの人生を暗黙のうちに伝えている。しかし、娘は「母親の寛容の裏にある意図を見抜いていると思われたくな」くて「空々しい顔」をしてそれに応える。卒業試験合格!彼女はすでに承知していた。人生は“演技”ではなく“演劇”である。お互い本当はわかっていながら空々しく演じあうのであって、人間ひとり単体の“演技”による嘘だけでは他者に向き合うことはできない。こうして母娘の力で実際にこの“下宿屋”は世界の縮図であろうとし始めて大きく動き出す。
 教会の鐘の音は“祝祭劇”の開幕ベルでもある。女将ムーニーは「ジョージ教会の鐘が鳴りやんでいるのに気づく」―戦いの舞台の幕は揚がった。女将は勝算とともに予想される終幕の時間を知っている。「ドーラン氏と決着を付けてからでも、モールバラ通りの略午に間に合う」とは新潮文庫版の解説によると「聖マリア仮司教座聖堂」で正午に始まる略式のミサにいくつもりであるらしい。まさしく“聖母”のための“祝祭劇”であるのだ。彼女は入念にシナリオと演出を練る。そして自らの演技や表情のチェックにも余念がない。「女将は立上がり、窓間鏡に映る自分を観察した。大きな血色のいい顔の決然たる表情に満足し」ている姿は堂々たる大女優の威厳さえ漂う。
 一方、同じ朝に同じように鏡に向うドーラン氏は、女将の描いたシナリオを前もって与えられたような絶望的な気分で“反芻“している。髭を剃る手もおぼつかなく、眼鏡も曇る。彼は女将の仕組んだ“劇”に盲目的に従わざるをえないのだ。「こういうことになったのは、自分のせいばかりではない」ドーラン氏はポリーの誘惑に乗ってしまった晩のことを官能的な記憶の中に蘇らせる。彼女の行為はまるでオペラのシーンのようにわざとらしく芝居がかっていた。それでも彼はその仕組まれたフィクションに陶酔していた自分に気付く。「しかし、のぼせは過ぎ去るものだ」といいながらも「罪には償いをしなければならない」と自覚する。他者と向き合う血みどろの人生への決意の言葉である。ジョイスはここでキリスト教で教える“原罪”の意味を宗教的解釈を超えて、人生の節目における覚醒の瞬間に置き換えている。
「階段を降りて行く」ドーラン氏は、新たな誕生をむかえる新生児である。相変わらず「眼鏡が曇ってかす」んでいるが、先程までのは臨終による“眼のかすみ”であり、今度のは“まだよくみえていない”赤子の眼である。彼は新たな人生の始まりにおびえる。「最後の踊り場を過ぎて」いよいよというときにすれ違ったジャックを悪魔の化身のように恐れる。自分が生きとし生けるこの世界を初めて“荒野である”と痛切に感じることができたわけだ。本当の人生がここから始まる。本当の苦労もここから始まる。早速悪魔に試されたドーラン氏は、いつのまにか“イエス”の役回りも負わされはじめているのである。そんなにも重い荷を背負わされたドーラン氏の行く末は、この後の話につづくのであろう。
 ポリーの方はといえば、ドーラン氏との修羅場を演じた後「少しの間、ベッドに腰掛けて泣いていた。それから涙をぬぐい、鏡の前に立った」―不幸な少女の役を終えて、いよいよ“聖母”の役を演じるときがきたのを感じたのである。母親以上の大女優になる素質は充分だ。彼女は辛抱強く、ほとんど陽気に、警戒もなく、彼女は待った」という程にまで澄んだ境地に達する。娘から母親に変貌していく神聖で静かな瞬間である。しかし彼女の心は次第に「将来の希望と夢想」に支配されていき、やがて「なにかを待っていることも思い出さな」くなる。そもそもこの“偽物の聖母マリア”は何を待っていたのか?もちろん、ドーラン氏と女将ムーニーとの話し合いの結果である。なぜ、それを忘れかけはじめたのか?それは、生々しい現実の世界に直面するまでは“聖母”のままでいられるからである。
 そして「ついに母親の呼ぶ声が聞えた」―彼女は栄光の時の到来を確信して「立上がり」「駆け寄る」が聞えてきたのは「降りといで」―“お前も天上でいつまでも夢見てないで地上に降りて来なさい”といった感じだ。階下にはすでに現実と向き合う覚悟をきめたであろうドーラン氏が待っている。「ドーランさんが話があるってさ」「それから彼女は自分が何を待っていたのか思い出した」
―現実を思い出した後の“元聖母”と向き合って生きねばならぬドーランさんの人生がいよいよ始まるのだ。

―この話では、ポリーとドーラン氏の実際の関係がはっきりとは語られていない。しかし間違いなく二人には肉体関係がありポリーは“受胎”している。状況証拠(ほのめかし)は多々ある。例えば「彼女の入浴の日」に関係を持ったであろうこと。また、ドーラン氏がポリーに妊娠の可能性を示唆されておびえながら行った「前夜の告解」で司祭が「この件のばかばかしいくらい細かなことまで聞き出し」たのは、興味本位というより独身で知識のないドーラン氏からポリー妊娠の可能性を探るためだったと察せられること。女将が「幾許かの金で取繕って満足する母親もいる」といっているのは、娘を売春婦まがいに仕立て上げてもかまわない母親もいるとも読めるがこの場合、堕胎の費用のことをいっているように聴こえる。そして何より当人たちの狼狽ぶりがその事実を強く語っている。

―この話に限っていえば、ジョージ教会(プロテスタント)は男性と戦闘を表象し、聖マリア仮司教座聖堂(カトリック)は女性と家庭を表象する。中間にある下宿屋は、前者から後者に至る道程であることが期待されている。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に柳瀬訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。



ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック