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2010年6月22日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―6―
“Two Gallants”「二人の伊達男」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「二人の伊達男」


『ドンキな二人の愛すべき珍道中!』


 作者はコーリーとレネハンの二人のことを決して“伊達男”とは言っていない。二人共 “伊達男”の要件を満たすとはいえないとてもモテそうにない容姿に描かれている。あくまで彼ら二人が自分たちのことを“伊達男”だと思い込みたがっているだけなのである。
 コーリーは自分の女遍歴を吹聴しているが、よく聴くといずれも金や物や見栄で惹き付けているだけのようだ。現代日本でいえばキャバクラ通いを自慢しているようなものかもしれない。ところが、今回出会った“下働きの女中”はどうしてこうもコーリーに従順にいろいろと貢いでいるのだろうか。
 この女は私娼であり、警部の息子であるコーリーにそれが咎められないように金品や我が身をもって貢いでいたのである。コーリーは「私服の警官と歩きながら熱心に話をしている姿がよく見受けられる」とあるから綱渡りな商売をしているこの女の眼にもその姿が気にかかっていたに違いない。そこへコーリーの方から誘いをかけられれば、客を装って証拠をつかまれ官憲の手に渡されるかもしれないと最初は思ったはずだ。「いつもは牛乳配達の男とでかけると言ってたっけ……」とある“牛乳配達の男”というのは彼女の上客だったのだろう。“牛乳配達”のように正規(?)の娼館に通えない下層の人を相手にしていたと思われる。「子どもが出来なけりゃいいがと思ってたけど、あの娘は手だてを心得ていたよ」とあるから“手だて”を教わった親玉がいたに違いない。その親玉がコーリーやその父親の警部のこともよく心得ていて「ある晩には糞ったれなほど上等な葉巻を二本持って来てくれた――ほんと、まったくの上物でさ、親父が吸ってたやつさ……」と、ご丁寧に父親の好みに合わせた付け届けもしっかり用意させている。「結婚してくれるだろう」と思われているのならそれはそれで彼女らにとっては安全なことだし、暗に見返りを期待されているならそれはそれでしかたないだろう、といったところだ。しかし、おそらくそれは彼女らの一方的な思い込みであったわけで、せっかく息子と父親に二本あげたつもりの葉巻もコーリーひとりで吸ってしまったに違いない。コーリーの方にはそんな気もなくただ男好きのする装いをした女にたまたま眼を止めただけなのだ。そしてあまりにうまくいったその後の展開にすっかり有頂天になっている。「おれの名前なんか知りもしない」のに「あの娘はおれに少々いかれている」のが変だとも気付かないし、そもそも自分も相手のことを「バゴット通りのとある家の女中」としか知らされていないではないか。それでもコーリーは自分のことをモテる“伊達男”と信じていてレネハンに自慢するのだが、レネハンの方では実際のところを何となく察しているらしく最初からわざとらしく調子を合わせている。コーリーは「いかした女」といっていたが、レネハンの実際に目の当たりにすると「容貌は無骨だ。大きな鼻孔、満足げなニタリとした顔にぽっかり開いたしまりのない口、それに二本の突き出た前歯」の女だった。レネハンは「数分間、二人を観察した」結果、これらのことと「強い香水のにおい」と玄人っぽい派手な装いと合わせて自分の予感が当たっていたことに気付いたはずだ。
 コーリーは、取り巻きと自らが描き出した“伊達男”のサクセスストーリーという幻影を追い求める人物である。レネハンたちより少しだけ夢に生きているともいえる。コーリーの大きな頭で「パレードでもしているかのように」不自然に歩く姿は、“騎士物語”の妄想に陥り、田舎娘を姫と慕い不格好な騎士姿でロシナンテにまたがって旅をするドン・キホーテを思わせる。もちろん、従者はレネハンの“サンチョ・パンサ”である。ドン・キホーテもコーリーも現実は見えていない。自らの中のフィクションにふりまわされる人生である。その残酷な現実が見えているのが従者のサンチョ・パンサであり、レネハンなのである。二人とも将来の報酬をあてにして“主人”と旅を共にしている。しかし、そればかりではない。それぞれ心のどこかでフィクションの中の迫真性を楽しんでいる。人生の喜びにつなげているのだ。それはある意味、小説の作者と読者の関係に近いかもしれない。
 レネハンは、コーリーが女と出かけて後にひとり残され「快活な気分にも見放され」てしまう。そして「魅惑してくれるはずのあらゆるものがつまらないものに思え」だす。実はレネハンも「コーリーとふたたび落ち合うまで、時間をどう潰すか」という程にまで、コーリーの中のフィクションにのめり込んでいたのである。いわば“フィクション中毒”である。他人の人生そのものに仮託するのでなく、他人の幻想に依存する倒錯した生き方に疲れた彼は「さらに老けてみえた」
 さて、ここからレネハンが自分の人生を模索する旅が始まる。彼はひとまず、ラットランド広場まで引き返す。コーリーの長い話の「けりをつけ」た場所、この話での彼ら二人の出発点に戻ってみたのである。レネハンは、「長話」から拝借した他人の人生をなぞることから一時離れて、仕方なく自分自身の人生を歩む、いわば“今度は自分でオリジナルストーリーをば、ちょこっと考えてみよっかなあー”と軽く考えたわけである。
 そこで彼はとりあえず元来たのとは“別の道”へ「左折」してみる。そうすると彼が身近にしていた派手な暮らしとは別にある「みすぼらしい店」が眼についた。なんかちょっと趣向の替わった世界に通じてそうな気がする。今まで接してきたのと異なる人種の中で食したことのないものを食べてみる。うまい!案外この線でいけるかも。レネハンはここで改めて、コーリーが自分の前で“演じて”みせている人生と自分とを比較してみる。コーリーのようなフィクションを描くには「自分の財布や気力の乏しさを痛切に意識」せざるをえない。「だが、希望がすべて消えたわけではない」身の丈にあった暮らしぶりを目の前にしてレネハンは小さな幸福を夢想しはじめた。「食べ終わると前より気分がよくなり、人生に対する嫌気も薄れ」てくる。人生にとって食べることは重要だ。新しいものを食べれば新しい勇気もわいてくる。ジョイスは食べることの意義をいつも強く意識している。
 レネハンはその時「幸せに暮らすこともできるかもしれない」と一瞬希望を膨らませたが、その希望も所詮ここで食した豌豆とビールの二ペンス半の分だけに過ぎない。しかもその希望は条件付で「現金を少々持ち合わせた、純朴な人のいい娘に出逢えることができればだが」と今以上の他者依存を前提としたものだった。コーリーの描いたフィクションをそのまま現実化しようというのだからかなり図々しい。結局、彼の思いつきも亜流の域をでないといえる。「店から出て、ふたたびあてどなく歩き始めた」彼は、友だちに出くわす。ここでの彼らの会話は“共通のカモ”コーリーの話を中心としている。他にも羽振りの良さそうな人間探しとかいった、他人との交遊によって得た利益についてのことに終始している。つまりは、レネハンの他人依存の“受け売り人生”が再び思い起こされる場面なのである。彼はこれではいけないとばかりに再び前へと進み始めるが、十時の鐘の音を耳にすると夢からさめたように「彼の心は再び活発に」なる。レネハンはコーリーとの再会の時間を意識し始めて元のような傍観者に戻ってしまったのだ。ふたたびコーリーのフィクションの第一の読者となったのである。彼は手に汗握る読者のように「友の立場の心の苦しみや戦慄もすべて味わ」いつつ、この先の展開に気をもむ。そしてやっと現れたのがコーリーと例の若い女である。
「二人はちょっとのあいだ話をしていた。それから若い女“young woman”は家の半地下勝手口に通じる階段を降りて行った」そして「何分か」で、「一人の女“A woman”が正面の階段を駆け降りて来て咳払いをした」後、数秒間して女は「駆け昇って行った」とある。
「若い女」“young woman”と「一人の女」“A woman”は別人である。区別するようにわざわざ表現を変えている。「一人の女」“A woman”の方はおそらくこの家の女主人で、闇の商売を仕切っているのだ。「若い女」“young woman”が帰宅して女主人と――今度は現金を要求されました―→しようがないわね――のようなやりとりがあって、表に男を待たせておくのも危険だから急いでお金を持って玄関から降りて行ったのだろう。だから戻るときも階段を降りるのではなく、昇って行っている。
これを影から目撃していたレネハンは、コーリーがその場を足早に去るのを追いかけていって呼びかけた。しかしコーリーは中々返事をしないでとぼけている。このときコーリーは内心かなりうろたえていたはずだ。何しろ、自分が“伊達男”の座から転落した直後だから。そして同時に自分が別の女から金を受け取ったところをレネハンに目撃されたかどうか推し量っているのだ。しかし、その家を離れレネハンとの待ち合わせ場所付近にたどり着いたときに腹を決める。レネハンがどう思おうとかまわない。レネハンの前で自分のフィクションをこのまま続けることにしたのだ。コーリーにはそれしか生き方を選べない。そして彼は「弟子」に黄金の戦果を雄々しくかかげたのである。

「八月の灰色の暖かい夕暮れ」の詩的な描写に始まるこの物語。 “texture”「模様」(訳によっては「織物」)のように無機質な喩えで表現されるダブリンの人々は、自主性のない人生に埋没しながら「変わることのない、たえまないつぶやき声を送り上げている」そうした無自覚な群衆の中の代表的な二人にクローズアップしてみると、滑稽な彼らの日常の上に希望の微かな光が見えてくる。どんな人生にもちっぽけな希望のビジョンがある。たとえ、フィクションでもそれを追い続けることで彼らの生命の呼吸が止まらずにいる。しかし、彼らには本当の希望の実体が見えていない。レネハンの頭上にあり見え隠れする月はそれを象徴している。あるいは彼が街で耳にしたハープの「太く豊かに脈打」つ旋律も同じく、彼らの目の前に、頭上に、心の奥底に、血の中に隠されているもの希望を表象している。レネハンがコーリーと分かれてひとりになった場面では、彼は一瞬覚醒しかかりこのハープの調べが心の中で微かに鳴り響いていた。
 物語の最終場面、レネハンの予感していたとおり月は雲に隠れ「小粒の雨が落ちてきた。彼はそれを警告と受け止めた」しかし、空の月は隠れてもコーリーの「掌には一枚の小さな金貨が輝いていた」希望の月はコーリーによって描きなおされた。このとき少なくともレネハンにとってコーリーは“救い主”に見えたに違いない。だから「弟子」と呼ばれるわけである。そしてここで我々はちょっぴり可笑しくなってホッとさせられるのである。

―ハープの奏でる《静かなれ、おおモイルの海》は、岩波文庫版の解説によれば「義母の魔術により白鳥に変えられたフィオヌラが、キリスト教が到来し、教会の鐘が鳴るまで地上をさまようという民話を基にしている」とある。まさしく自らの本性に気づかず「地上をさまよう」レネハンを含めたダブリンの、そしてアイルランドの人々の救済の道を示している。ハープの演奏者もハープもそれに気づかずにいる人々の前で「うんざりしているように見える」し、レネハンたちにとってもこのときそれはただ「物悲しい音楽が背後」で響いているに過ぎない。
―レネハンがコーリーとの約束を思い出して焦りだすきっかけになったのが、十時を打つ時計の“鐘”の音であったことを上記の民話に結びつけると面白い。
―コーリーは最後に自らに起こった真実を悟り、その苦しみを超えてレネハンと自らの“救世主”となる。レネハンはすべてを知りながら恩恵のためにそれに調子を合わせているに過ぎない“裏切り”の「弟子」である、という見方も面白いかもしれない。

―ちくま文庫版に載っている関連地図はたいへん参考になる。わかりやすい!例えば、レネハンはリフィ川を3度渡っていることがわかる。1度はコーリーといっしょに。そしてコーリーと分かれた後もう一度川を渡って食事をしてから再び川を渡る。つまり“生まれ変わり”をしたことになる。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に結城訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。



ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック