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2010年9月8日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―14―
“Grace”「恩寵」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「恩寵」


『日用品となった“神”のなかの真実』


 「恩寵“Grace”」は“神”から与えられる恵みである。
 さらに生活の中でも様々な善なるものに対して、この“Grace”という言葉は使用される。この話の中でも「お陰で」「優雅」「上品」といったようなかたちで登場する。いずれも肯定的な意味であり、すべて善なるものは“神”の「恩寵」によりもたらされた恵みであるといった考えが、キリスト教社会を支配しているからだ。

 “神の「お陰で」”、“神から授かった「優雅」さ”、“神の与えた「上品」さ”、“神のもたらした「恩寵」”。すべて“神”の慈愛に満ちた恵みであるという意味で“Grace”という言葉があてがわれてきたのだ。
 ところが、この話の中ではすべての“Grace”が、“神”の意志ならぬ、ある自我の欲求に応えた形でもたらされたものに堕している。すべてがつくりものの恩恵である。自然に生まれそなわった真の“神”の恵みとは異なるものだ。
 カーナン氏が、一人前を装えるのは、“自ら”が演出したシルクハットとゲートルの「お陰で“Grace”」である。
 カーナン氏は、結婚式の時もシルクハットを片腕に載せて、“自ら”「優雅“Grace”」さを演出した。
 フォガティ氏が、“自ら”「上品“Grace”」に振る舞うことで、奥様方に気に入ってもらえることを期待した。
 パードン神父は、“自ら”が計算した精神の勘定書を正しいものに修正することを“自ら”が“神”に要求している。本来は、許されてのちにその「恩寵」に感謝すべきものを、“自ら”の意志で許しを予め与えてしまっている。
 どれもこれも“神”が不在であるところの「恩寵」になってしまっている。宗教も“神”も、現世の功利だけで成り立つ近代社会の日常の中に埋没したからである

 宗教は、もともと村で生まれたものである。自然発生的な共同体社会を前提としている。
 自我の孤立している近代都市や家族においては、人びとを結びつけているのは流動する利害関係である。常に人為的に更新されつづけなければならないものである。互いの関係、立場は常に揺れ動いている。それを前提として宗教や“神”も、様々な新たな役割を担わされて絶えず再生産されていかざるを得ないのだ。
 ここに提示された話は、ダブリンの街角で複数の人びとの心が、新たなかたちの宗教的な救いを求めてさまよい蠢く姿を描いたものである。
 尚、ここにおいても、これまでの"Dubliners"の諸作品同様に、霊的な世界の存在が並行して展開されている。人間の無意識な心の動きが、人類が創出した偉大なアートである霊的な表現にのせて提示されている。それは、未知の存在に救いを求め自我の精神を高める、本来の宗教心そのものが再生されていくきざしを告げる有様を示すものである。

 この話は“便所”から始まる。地下の“便所”に落ちた主人公カーナン氏は、二人の紳士により助け出される。実はこの二人は同時に加害者でもあるのだ。
 彼は、そのうちの一人ハーフォード氏から金を借りて返せずに制裁にあったのである。彼らの間に精算は済んでいない。彼らの関係も今後まだ継続するわけである。悪魔に魂を握られているのと同じである。
 彼ら二人は、他の客やバーテンからもまさに悪魔のごとくに恐れられている。だから誰も、カーナン氏がいっしょにいたのがその紳士二人であることを指摘できないのだ。カーナン氏も同様である。
 “便所”は地獄の入り口に擬せられる。彼は、悪魔との契約に基づいた義務を、この世に生きるかぎり全うしなければならない運命にある。彼が死んで、地獄に赴く以外にはその運命からは逃れられない。実際、彼の魂は一旦は死を覚悟した。死に逃れようとした、と言った方が正しい。
 店長は、「その男の顔が血の気を失っているのに驚いて、警官を呼びに」やっている。店長の目にはほとんど死人に見えたからである。回復の見込みがあれば、医者を呼びにやらすはずである。
 カーナン氏が「目を一瞬見開き、深く息をしてから、ふたたび閉じた」のは、目の前に「彼を一階まで運び上げた紳士の一人」が「へこんだヘルメットを片手に持って」立っているのが見えたからである。
 結局、彼ら二人は巡査が来たときに立ち去った。

 ここで救い主が現れる。「サイクリング服の若い男」である。彼は人の輪をかきわけて、怪我人のそばにひざまずき、意識を呼び覚ます処置をした。無償の行為である。彼こそ、“神”である。街に“神”が現れる奇蹟は、こういう瞬間でしかありえない。誰もが、神にも悪魔にも成りうるのだ。

 彼の指示で喉に流されたブランデーによって、カーナン氏は二、三秒経ってから目を開けた。彼を襲った二人がいないか、警戒しているのである。「取り囲んでいる顔を見まわし、それから事情がわかると、どうにかして起き上がろうとした。」―「事情がわかる」とは、二人がいないことを確かめたということである。
 カーナン氏は、「サイクリング服の若い男」によって命を救われたのだ。彼の生きる意欲を喚起したものは、決して無償の愛に感じ入ったからではない。一口のブランデーのおかげである。皮肉にも、実際上彼は自分を堕落に導いた酒によって魂の地獄行きから救われたのである。これもまた、“街の奇蹟”の現われなのだ。

 「サイクリング服の若い男」のおとこに続いて現れたもうひとりの“救い主”が、パワー氏である。彼は警察本部の人間であるという権威を利用して、窮地に陥った友人のカーナン氏の立場を救う。
 彼の場合は、カーナン氏の友人でありしかも多少の利害関係を持ってしまっていて必ずしも無償の行為とは言いきれない。したがって神とも悪魔ともいえない。どちらにも成りうる。

 後になって、カーナン氏の前にはパワー氏を含めて3人の友人と1人の男が見舞いに現れる。
 3人の友人は、カーナン氏と仕事上の接点もないし、幼馴染みでもなく、また、趣味などの同好の士というわけでもない。それでは彼らがどこで知り合い、何により意気投合しているというのだろうか。何が彼らを友人たらしめているのだろうか。
 彼らを結びつけているのは、酒である。彼らは居酒屋で知り合ったのである。
 "Dubliners"9作目の「対応」で示されているように、ダブリンでは集団で奢り合いながら、酒を飲む習慣がある。
 パワー氏とカニンガム氏の2人は警察本部の人間で、社会の上層階級に属している。カーナン氏とマッコイ氏は、本来なら2人と共に杯を酌み交わせるような収入を常に得られているわけではなかったのだ。
 それが、カーナン氏の商売が絶頂のときに、同じ頃テナー歌手として名が売れていたマッコイ氏とともに一時的に羽振りのよかった懐をたよりに、上層階級の2人の属する飲み仲間のサークルに加わることとなったのだ。
 彼らの間には、当初、上下関係も利害関係も存在しなかった。これは、赤の他人が自然と出会える近代都市ならではの純粋無垢な関係である。「サイクリング服の若い男」が起したのと同様な“街の奇蹟”を起す素地と成りうる関係といえたのだ。
 3人の友人のうち、パワー氏だけは知り合って後に様々な形でカーナン氏及び、その家族の生活と関わり貸し借りの利害関係を帯びていくことになる。といっても、もっぱら彼の側からの貸しが積み重なるばかりであった。彼はその見返りを秘かに“神”に期待しているのだ。自分の行いが善行とみなされ、何らかの見返りがより大きな力によってもたらされることを期待している。
 カニンガム氏は、“知”を代表する人物である。彼は、家庭においては救いがたい酒飲みを結婚相手に持つこと、そして職業上でもろもろ事の件に関わり、そこから得た人間認識を一般哲学で深めることによって、社会における実践的な“知”を獲得している。
 マッコイ氏は、人間の実践的な“知”を超えた、芸術と死の世界に通じている。彼も彼の妻も元歌手であり、現在の彼は「検死官の秘書」である。
 一方、あとから見舞いに訪れるフォガティ氏は事情が異なる。カーナン氏とフォガティ氏の間には「未払いの食料品が少しある」つまり、最初から利害を前提とした関係を帯びていたのだ。何かが行われたとしてもそこには無償のものはない。お見舞いの品も何らかの見返りを期待のことである。そこには悪魔の入り込む隙間がある。酒での失態から傷を負った怪我人を見舞う品としてウィスキーというのは、不自然である。これは、悪魔からの誘いの水でもあるのだ。

 さて、パワー氏は怪我をしたカーナン氏を馬車で自宅まで送っていった。彼はなぜこんなにも熱心に無償の親切を施すのか。
 もちろん、多少の友情といった情愛に基づくことも否定できない。しかし、それ以上に宗教的な利益、自らの魂の救済という“見返り”を希求しての行いなのである。
 道中に、河口から冷たい風が吹き寄せて来る。これは、地獄から吹いてきた風だ。カーナン氏の魂がまだ脅かされているのである。彼の言動にもその兆しは現れている。
 「事故のいきさつを話してほしい」と頼んでも、彼は舌が切れてるからという理由で「言へねえ」と、ろれつのまわらない言葉遣いで述べるのみである。物理的にも、精神的にも固く口止めされた状態のカーナン氏は、悪魔の支配に蹂躙されているのだ。いつまた彼の魂自らがこの世に留まるかぎりつづく苦しみから逃走しようとするかわからない。それは肉体に付随する自我が行う“自殺”とは異なる根源的な逃走だ。霊的なレベルでいうなら、魂が冥界に向うことである。
 そこで、パワー氏はマッチをすって命を繋ぎ止める“生命の火”を灯すことになるのだ。この“生命の火”は、"Dubliners"12作目「委員会室の蔦の日」でも登場したものである。現実にはパワー氏が行ったことであるが、ここでは「もう一人“The other”」と呼ばれ、あたかもパワー氏のほかにいる、見えないもうひとりが火を灯したかのようである。

 カーナン氏の家に到着したパワー氏は、カーナン氏の子供たちの「行儀や言葉づかいに驚き、その顔つきが物思いに」沈むことになる。シルクハットやゲートルの「お陰“Grace”」で、かさ上げされていたカーナン氏の人格の“メッキ”が剥がれ落ちていくように思われたのだ。
 あげくにパワー氏はカーナン夫人から、夫の酒に溺れた生活を告げられることになる。自分が友人として、対等なものと認めていた人格の堕落した様を見せつけられたのである。彼はこのとき自分も共に堕落したような感覚に陥ったのだ。
 カーナン夫人にとっては、最初からパワー氏とは無垢とはいえない関係である。友情が介在することもなく、「夫婦喧嘩の折に仲裁にはいって」くれたり、「たとえ小額であっても、ちょうど必要とするときに金をちょくちょく貸し手くれた」関係は、現世での見返りを義務とし利害に縛られたものである。パワー氏が今夜のできごとについて「用心のために、自分に責任」がないことをカーナン夫人に対してわざわざ主張したのは、そのことで見返りを精算されることを避けるためである。
 カーナン夫人はそれを聞いて、ともかく今夜の恩義の分だけは精算するつもりである意志を表明する。家にはなにもないから、買いにいかせる、と言ったのだ。
 それを聞いて「パワー氏は立ち上がった。」彼にはカーナン氏の意志を介さずにそれを受け取ることができないからだ。それでは一方的に恩義を売ることになってしまう。パワー氏は、カーナン氏との関係に見返りを期待してのものに落としたくないのだ。それでは、自分の魂まで貶めることになる。彼は“神”に直接見返りを求める権利を失ってしまうことを恐れたのだ。
 パワー氏は、カーナン氏の「心を入れかえ」させ、彼の魂を救済することを目論むようになる。このまま彼との個別の利害関係を膨らませていっても、現世でのカーナン氏の負債を増やすばかりである。“神”の前でカーナン氏の「心を入れかえ」させ、いわば生け贄として捧げるようにして“善行”を認めさせ自分への見返りを“神”に強く主張する腹づもりなのだ。
 そのためには、さらに第三者の力を必要とする。パワー氏ひとりがカーナン氏の救済を一身に担ったのでは、そのことによりカーナン夫妻との間にさらにまた新たな負債が生まれるだけになってしまうからだ。
 そこで、パワー氏はカーナン氏の「心を入れかえ」させることを、彼の年上の同僚であるマーティン・カニンガム氏に依頼する旨をカーナン夫人に告げたわけである。これは、あくまで友人たちの善意による行いであると理解させるために。
 カーナン夫人にはパワー氏の心持ちなど理解出来るはずもない。戸惑うばかりである。カーナン氏を「別人」にする計画は、パワー氏の一方的な都合でなされるものだからである。したがって彼女は、このときそれについて良いとも悪いとも述べていない。
 カーナン夫人も結婚時に、パワー氏同様、夫の価値を実態以上にかさ上げされた形で受けとめている。カーナン氏が式のとき腕に「優雅“Grace”」に載せたシルクハットがそれを象徴している。
 彼女はしかしそれでも、長く退屈な妻や母として生活の続けるうちに、家庭生活を支える実践的な知恵を身につけている。そのなかでは「彼女の幻想もおおかたは消えてほとんど残っていない」。宗教の力で夫を救う話をされても否定も肯定もする気になれないのだ。だから「すべてあなたにお任せしますわ」ということになる。
 カーナン夫人にとっては、宗教は完全に“日用品”化している。「宗教だって彼女にとっては一つの習慣にすぎ」ない。「聖心をいつも変わらずに信奉」しているのも「数あるお祈りのなかで世間一般にとりわけ役立つお祈り」と、単にその“効用”を期待してのことである。それはパワー氏が“神”に期待するほど過大なものではない。「彼女の信仰は彼女の家事による制約を受けていた」ほどのものである。
 しかし「彼女だって、切羽詰まれば、バンシーだろうが聖霊だろうが信じることはできる」のである。この“切羽詰ま”ったときにこそ、むしろ真の信仰が芽生え、“神”や“救い主”が現れる余地が生まれるのだ。それはほんの瞬間にすぎないこともある。それでも“切羽詰ま”ったことによる信仰の重さは、はかりしれないものになるはずだ。
 それは、この後に展開されるパワー氏らによる“神学論争”より、よほど信仰の原点に近い。カーナン夫人は「サイクリング服の若い男」ほどの“奇蹟”はないにしても、彼らより“神”に近づく道をよほど心得ているのだ。

 カーナン氏は現世での勘定書では多数の“負債”を抱え込んでしまっている。
 その当事者は主に、最初に登場した紳士二人の他、パワー氏、フォガティ氏、そして自分の妻である。彼らに魂の救いを求めることは不可能である。彼らから純粋無垢の救済を得られることは、もはや永久にない。なぜなら彼らが仮に救いの手を差し向ければ向けるほど、その分、負債が増えてしまうからだ。サイクリング服の若者のように、謝礼を拒否したかたちでなければ、“神”に代わりうるような無償の救済は成立しないのだ。
 彼に関る人物で、何の利害関係もなくて、彼の魂を純粋に救える可能性の残っているのは、カニンガム氏(知)とマッコイ氏(芸術)、そして後から登場するパードン神父(宗教)である。
 もちろん、彼の魂がこの世に留まりたいと強く願う意志は何より不可欠のものである。一度消えかかった生きる意志を復活させたのは、サイクリング服の若者である。彼の登場と、馬車の中で灯された“生命の火”が彼を死の世界に赴くことを留めさせたのだ。

 本来、彼は死んでいる存在だ。だから、2日後に友人が見舞いにきたのは、本当なら“弔い”であり、静修に教会を訪れるのも“葬儀”だったはずなのである。教会にいくときにろうそくを持っていくことをカーナン氏が頑なに拒んだのは、「姉妹」でも言及されていたように、それが死者と結びつくものだからである。

 友人たちが見舞いにきた部屋は「体臭が充満して」いて、生の力がみなぎり溢れている様子である。カーナン氏の「腫れた頬はちょっと赤らみ、まるで暖かい燃え殻のようだった」とあるのは、馬車で灯されたマッチの火が燃え移ったものである。
 カニンガム氏は「こういった場合にうってつけの男」であるとされているが、はたしてそうだろうか。彼ら友人たちの目的は、カーナン氏の「心を入れかえ」させることにある。ところが、カニンガム氏の妻は「酒飲みで人前に出せない女」であり、「六回も所帯を新たにしてやったのに、そのつど妻は調度品を彼の名義で質に入れて」しまう有様なのである。つまり、人の「心を入れかえ」させることにすでに失敗しているのだ。功利的な観点からいえば、彼は役に立たないということになる。しかし、心情的には、カーナン氏のような酒飲みやそのまわりの人びとの心持ちを深く理解出来る立場にいる。実際、彼の妻と彼の関係までは語られていないが、人前に出せないような妻と生活を続けられるのだから、家族としての愛情は維持されていると、考えられる。
 マッコイ氏は、カーナン氏と利害関係の伴わない友人であるばかりでなく、元芸術家であり、様々な職業を経て、現在は人の“死”に関係する仕事に従事している。つまり、精神世界と世俗世界、あるいは“生”と“死”の世界と接点を持ち、魂に直接触れる機会のある立場にある。
 カーナン氏が「ひどくむかむかしてなあ。吐きたい気分なんだ。」といったときに、マッコイ氏は「粘液だよ、」と応える。「喉の奥から」突き上げてくるものの正体を知っているような口ぶりである。マッコイ氏はつづいて「そこが胸腔なんだ」といった。カーナン氏がこの世に留まり生き残るため、胸の内部で根源的な苦悩にもがいていることをマッコイ氏は理解しているようである。
 その後、カーナン氏はパワー氏に促されて、事件の顛末を語る。しかし、肝心な部分は、はぐらかしてしまう。実は友人たちは気付いているのだが「終りよければすべてよし」という具合に、カーナン氏に調子を合わせてしまった。“すべてはカーナン氏が酔いつぶれていたせいである”とあくまでカーナン氏個人の問題に引き落とさないと、彼らの救済の手が及ばないからである。彼らは、事の本質を解決するためではなくて“救済”という名の行為を行うために集っているからだ。
 パワー氏は、事件のときにもカーナン氏に対して直接に救済の手を差し伸べている。パワー氏はそれも自分の“手柄”に加えて、“神”からの恩寵を受ける上での計算に加えてほしいのだ。マッコイ氏はそれに対して「巡査を抱き込んだんだろう」とあてこすりをいう。結局、自分の権威を利用しただけで、何かを犠牲にした無垢の救済とは異なる事を指摘したのだ。パワー氏の方でも、マッコイ氏が詐欺まがいともとれる手段で利益を得ている事を快く思っていない。マッコイ氏にしてみれば、ビジネスの一環であり生きるための知恵ともいえるのだ。権威や権力を持つものと持たぬものの、超えられない溝である。この溝が、魂の救済についての両者の考えの決定的違いを生む。マッコイ氏は、魂の救済は自らの力で行うものであり、それが叶う事が“神”の「恩寵」なのだと考えている。パワー氏の方は、魂の救済は“神”がなすべき義務のように感じている。自分が行った善行に対する報酬である、と。
 カニンガム氏は、同じ役人でも「彼がダブリン城の役人であるのは勤務時間の間だけ」でありニヒリストなのである。巡査がパワー氏に従ったことについても、権威に敬意を表したり恐れたりしたからでなく、下卑た人種であるからに過ぎないといったような覚めた見方をしている。ある意味、邪念のない一種無垢なものの見方である。

 カーナン夫人のもたらしたスタウトが銘々の口に入り、いよいよカーナン氏を静修に誘う友人たちによる議論が始まる。旧約聖書「ヨブ記」での“三人の友人との議論”において、ヨブを死の誘惑から救おうとする行為と同じ図式となってくるのだ。単なるパロディではない。聖なる書物に著されているような出来事が、近代社会の片隅でも起こりうるということを説いているのだ。「ヨブ記」の持つ普遍性の現れでもある。
 3人は、身を洗い清める静修へとカーナン氏を誘うため、カトリックのイエズス会をそれぞれの観点からいささか強引に持ち上げた。改革の必要がないほど見事な集団である、と。それにつられてカーナン氏は少しずつ軟化し始める。
 3人はさらに、静修を執り行うのが世情に通じたパードン神父であることを告げる。カーナン氏を静修に参加させるために、どんどんと敷居を下げてみせているのだ。

 ここで、フォガティ氏が見舞いを持って訪れることになる。彼は「上品“Grace”」な振る舞いを装う偽物である。「ヨブ記」でいえばあとから議論に参加するエリフにあたるが、この場合のフォガティ氏は悪魔に魅入られた男である。ウィスキーを供して、議論の混乱をはかり、ときにカニンガム氏の論にお追従し、あるいはまた、茶化すようにして、3人によるカーナン氏の魂の救済を骨抜きにしようと企んでいるのである。
 しかし、それにもかまわずにカニンガム氏の一見“知的”な論説は、イエズス会を飛び越え、今度は教皇を無条件に讃えるようになっていく。マッコイ氏は一歩引いている。パワー氏に至っては、ほぼ傍観者となる。カニンガム氏はなにも知的な論述をしているつもりはない。カーナン氏が自分を知的な人物だと思っていることを利用しているに過ぎない。
 カーナン氏は、教皇については懐疑的な見解も持ち合わせており、マッコイ氏もそれに気付いている。カニンガム氏は、ともかくカーナン氏を静修の席につかせることを優先して考えている。そこから始めようとしているのだ。実践的な“知”の持つ力を応用している。一方、マッコイ氏は理解を得てから自発的に参加してほしいと思っている。人知を超えた力の獲得を目指すためである。欲する救済のレベルが違うのだ。
 カーナン氏が初めて、心からの関心を示したのは自分の実際に見聞きした人物が話題に出てからである。「なんだって?それってテェーアムのジョンか。」まるで古くからの知り合いに出会ったかのように歓喜する。百の言葉より現実の人格を信用したのである。無垢な魂を持つからである。カーナン氏は「おれは構わないよ。」と静修行きにやっと応じたのである。

 カーナン氏の魂の強い意志により彼自身がこの世に留まったばかりでなく、彼に社会的に関ってきた人びとをまとめて救済する場に誘う結果となったわけだ。教会にはカーナン氏に関ってきた様々な人物が同時に集っている。これで家族が加われば、本当にカーナン氏の葬儀が行えるほどだ。
 カーナン氏は、“神”(サイクリング服の若者)の意志を受けてこの世に降臨したキリストの身体に準えることすらできる。教会におけるサイコロの五の目の座席配置は、キリスト磔刑のときの5ヶ所の傷の位置を表している。それが近代社会で起こりうる奇蹟を暗示しているのだ。
 教会でカニンガム氏は一番前の席で、カーナン氏と並んで腰かける。キリストの手首の部分である。生を象徴する。パワー氏とフォガティ氏は一番後の席に腰かける。足首の部分である。死を意味する。マッコイ氏はひとりで真ん中に座る。脇腹である。キリストの死を確かめる槍の刺さった場所である。再生を意味する。魂の再生に必要なのは芸術である。
 キリストの顔にあたるのが、もちろんパードン神父である。彼の“教義”は近代社会の商人のサイズに合わせて矮小化されたものである。しかし、彼の“教義”を真理たらしめているのは、形骸化されることでむしろ抽象化され、純化されたといってもよい“儀式”の「お陰で」ある。様式化されたものには、芸術作品から生まれる恍惚感を得たときと同一の純粋な意識を呼び覚ます力がある。パードン神父自身の自我の欲求とは無関係に、人びとの魂に直接働きかける“神”の言葉が潜む余地が生まれるのである。それが近代以降における“神”の「恩寵」である。


注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に米本訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 
注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。

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