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2010年6月18日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―5―
“After the Race”「レースの後 で」「レースのあとで」「カーレースが終って」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳 〜「レースの後で」
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス 著・米本義孝 翻訳〜「レースのあとで」
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳 〜「カーレースが終って」


『“Before the Race”〜大戦前の世界を覗いてみよう!』


 この話の実質的な主役ともいえるのが、ヴィロナという名のハンガリー人である。このヴィロナという人物は、大男の食いしん坊で音楽を良くするジミーの友人という以上のことがほとんどあかされない謎の人物である。
 話の中心であるアイルランド人のジミー・ドイル君といえば、成金息子で俗物臭プンプンである。心の動きにも格別目立ったところもない。シャルル・セグアンというフランスの大金持ちに追従しているだけのとるに足りない人物である。単なる傍観者といってもよい。それはこの時点(おそらく1904年頃)のアイルランドの国際的立場と同じといってよい。アイルランドはイギリスの植民地支配下にあり、折しも独立運動に大きくかかわることになるアーサー・グリフィスがシン・フェイン党を創立する(1905年創立)直前の時期である。グリフィスはオーストリアの一部であったハンガリーが、オーストリア=ハンガリー帝国の一翼を担うまでになった歴史を重視し、イギリスとアイルランドも二重王国となることを夢見ていた。―以上、wikipedia等参照―
 朝陽を背にして立つヴィロナに重ねた次の言葉「夜明けだ。諸君!」はハンガリーから全世界へ向けてのメッセージのはずであった。世界全体が融合する日の夜明けと。しかし、実際の歴史は逆方向へと巨大なエネルギーを発散させることになる。この時、誰がそれを予想しえたであろうか。
 “After the Race”はアイルランドと人類の歴史を切り離して考えることのできない作品である。一個人の内面に留まらない歴史的なテーマを持っている。しかも作者の意図とは別に大きな戦争の予感を結果的に抱えてしまっているのだ。作者だけでなく、第一次世界大戦は誰しも予想出来なかったことだ。時代を経た今だからこそ、この話の中に大戦への萌芽がみえるのかもしれない。それでもここまで民族的な洞察をなしえていたというのはジョイスの鋭い人間社会観察の賜物といってよい。
 19世紀はいうまでもなく産業革命という名の機械文明の帰着点にあり、その最大の成果のひとつが自動車である。また産業革命が引き起こした“世界経済”という巨大市場に欠かせないのが“通貨”(もちろん世界的な流通価値をもつに至った後の)である。自動車とお金、2つの象徴的な事物がいずれもこの物語に大きな役割を果たすことになる。当時、機械文明と通貨という2つの大きな人工的な価値を支配することになる国がフランス、イギリス、遅れてアメリカということになる。このまま順番にこの国々に続いて秩序よくこの“文明の利器”が世界的に浸透していけば明るい20世紀ということになったはずであった。レースのあと「今はみな均等のスピードで、次々と疾走」(冒頭の行での叙述)することが理想であったわけだ。だが、この物語の最終面でもカード勝負という形でその危うい秩序の破綻が予感されているではないか。もっとも作者は「夜明け」を期待することで強引な希望をつないでいるのだが。
 ところで登場人物それぞれの出身国フランス、カナダ、イギリス、アメリカ、アイルランドとハンガリーの異なる点は何であろうか。ひとつはハンガリーにだけ海がないこと、そして後の世に生きる我々にとってもっと重要なのはハンガリーが第一次世界大戦の同盟国側=敗戦国になるということだ。他の5カ国はすべて連合国側=戦勝国となる運命にある。
 登場人物の人格描写にてらしていうなら、海がないというのはつまりハンガリー人のヴィロナは世界との直接的つながりを欠いている、独自の生き方を標榜するボヘミアンであり、芸術家ということなのである。ドイルはアイルランドに置いてきたジョイスの抜け殻で、芸術に生きる我、つまりヴィロナこそ人類を未来に導く偉大な予言者なのだとでもいいたげな話のまとめ方である。他の仲間たちが機械文明や、貨幣といった人工的な、社会的な価値を追い求めているいるのと対照的にヴィロナは、自然的な、人間的なものの側に立っている。自動車に乗った4人の中でヴィロナだけが「たいへんけっこうな昼食にありつけた」という極めて肉体的な理由で「上機嫌」になっているのだ。他の3人はいずれも世俗的社会的理由により「上機嫌」なだけでその感情は極めて不安定なものといってよい。ジミーはそのヴィロナに対して「愉快で、すばらしいピアニストであるがあいにく文無し」との評価を下している。さらに「スピードをだして空間を突っ走るのは人を有頂天にする。巷のうわさになるのもそうだ。金を持つのもそうだ。この三つが揃っているのだから、ジミーを興奮させるのはもっともだ」とあるのは、ジミーたちの刹那的な価値観をズバリ言い表している。世俗的欺瞞に惑溺した感情の吐露である。まさに破綻の予兆に満ちている。
 ヴィロナの生き方が人間の肉体のもつ根源的なパワーを秘めていると感じさせるのは、自動車を降りて仕方なく徒歩で移動している場面の次のような叙述の流れである。「奇妙なことに足で歩くことに失望感を味わった」と。精力的なヴィロナのイメージからすると一見本当に奇妙であるが、実は極めて人間的で自然な感情に根ざしているのである。文明に馴れると彼のような“自然児”ですら、歩くという本来人間に備わった機能にも違和感を覚えるようになるのだ。それに正直に対応した感情といえる。しかし、彼のどん欲な本能はすぐに目覚める。「すでに頭のなかで猛烈にちらつきだしているのが晩餐だった」ように、またもや食べることに執着する。かなりな食いしん坊だ。ヴィロナには人間のもつ自然な力強さを感じることができるのだ。
 そのヴィロナの楽しみにしていた晩餐、そしてヨットの上での夜食、カード遊びに至る一夜は、まさに当時のヨーロッパ社会の縮図を描いた寓話的な展開となる。背後に通奏低音のように流れるのがヴィロナの歌と演奏である。それは人間の自然な表現の持つ永遠の美しさを表象している。一方で「街は、夏の夕靄でかすむなかを、彼らの頭上に青白い光の球を幾つも吊して」いて「若者たちは蝋燭形の電灯に照らされた心地よい部屋で夕食をとった」とあり文明が放つ人工的な価値をもった妖しい輝きに照らされた人工的なものと自然なものとの奇妙な二重奏にもなっている。まさに複雑なバランスの上にかろうじて秩序を保っていた当時の世界情勢を象徴しているともいえるのである。
 この時ジミー(アイルランド人)の眼に映った国際関係はこのようなものであった。
「フランス人たちの溌剌とした若さがイギリス人の物腰のしっかりした枠組みに優雅にからみついている」とは1904年の“英仏協商”を指し、彼の眼にはそれは「ラウスが勝った」つまりイギリスに歩があるという確信を持っている。そのイギリスに対しては「ダブリン市は首都の仮面をかぶって」すなわち背伸びして対等な立場に立とうとしている。イギリスからの独立の気運が高まっているのだ。(ジミーも調子に乗って政治談義を熱く語り出すが、イギリス人のラウスとの私怨に発展しそうになりセグアンにうまく場を静められる)遅れてパーティーに参加したアメリカ人のファーリーは、もちろん国際社会の新参者アメリカ合衆国であり、第一次世界大戦前のこの時点ではまだ植民地アイルランドとともに経済的には「一番ひどく負け」ていたに違いない。ハンガリー人のヴィロナといえば古き良きヨーロッパを讃えるように「イギリスのマドリガル曲の美しさを説くようになり、古い楽器が姿を消してしまったことを嘆」き「よく響く声」で「ロマン派の画家たちの描くリュートが本物と似ても似つかないと嘲って、みんなを圧倒しだす」しかし、皮肉にも歴史上では、同盟国側のハンガリーは、その後の大戦で彼らの国々に破れることになる。古き良きヨーロッパの象徴ともいえる君主制は実質的な消滅を向えることになるのである。
 最後の場面ではヴィロナは人工的な光ではなく、朝陽が差す「一条の灰色の光線のなかに立っている」―どんなときでも朝の太陽は人類に優しい。

―“Race”レースとは「競争」の他に「人種」という意味もあるそうだ。(岩波文庫版の解説による) それを聞くと翻訳の素人である私なのに“After the Race”を強引に、“人種を超えて”と訳してしまいたくなってしまう。
―“英仏協商”は今もいきているようで、wikipediaに拠ると「2004年には、調印100周年を記念して様々な行事が行われた」とある。数百年にもわたった対立関係を解消させたような外交文書だからおいそれとは撤回できないのだろう。我が国における外交上の様々な懸案も解決に数百年要するものも多々あるに違いない。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に米本訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。



ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳
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