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2010年6月14日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―4―
“Eveline”「イーヴリン」「エヴリン」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳 〜「イーヴリン」
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス 著・米本義孝 翻訳〜「イーヴリン」
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳 〜「エヴリン」


『どんな親でもとりあえず家族は大切にしたくなる症候群!』


 この話では、ジョイスは貧しい家庭の娘に変身し、愛人の男に導かれてダブリン脱出を試みる。
 前3作で、少年時代の奔放な想像力をもってしても叶うことのなかった異国への旅立ちだが、女となり男の力を導かれることでパワーを得ることができるのではないか、とジョイスは算段した。自分勝手な父親、家庭の犠牲となって狂死していった母親。虐げられながらもしがみつかざるをえない職場。ダブリンから押し出される動機付けは充分なはずだ。しかも愛する男というニンジンが眼の前にぶら下がっている。ここまで条件の揃った人生の中に入れば、大嫌いなダブリンからの脱出はスルリと簡単に成功するはずだ。しかし最終的にはこの試みは最後は大失敗に終る。
 いきなり主人公が女に変わっていて、一人称表記の“ぼく”で通して少年時代には名乗らなかった名前が、三人称であるこの話では“イーヴリン・ヒル”とフルネームで我々に与えられる。家族構成や家庭環境など、これまでの生い立ちも手際良くわかりやすく説明されている。これまでの3作のような不親切さと打って変わって、主人公の心情にすんなりと入ることができるのだ。これは、決して我々読者の便を図っているわけではなく、あくまで作者自身が主人公に感情移入するためのお膳立てであることは間違いない。感情的な"女装"を目指しているのだ。異性と聖人は絶対的な他者である。他者の翼を纏うことでの跳躍を試みたのだ。従って、三人称で始まった話がいつのまにか一人称で語られる人格の中に紛れ込んだりしている。― 対極の者に変身することは、自我を俯瞰することに繋がる。ジョイスはそれに気付いていたのか、いなかったのか。実人生ではいつも酔っぱらってばかりいたからそこまで深くは考えずなかったのだと思いたい。でなきゃ、創作なんて馬鹿げたことはできない気がするから。“そうだ、そういわれてみるとその通りだった…ような気がする”とジョイスは言ってくれそうな…。
 イーヴリンの心を強く引き止めたのは、結局父親の存在である。恋人より父親を選んだのである。もっといえば、母親より父親を選んだのだ。イーヴリンはいよいよ明日、駆け落ちを実行するという段になって、父親の老いを意識する。父親の、家族の優しい思い出が蘇る。幾倍にも楽しく増幅されて。でもそれが生きるすべでもあったはずだ。父親の眼を盗み近所の原っぱで遊んだ思い出とともに。それでも翌朝埠頭にまで赴いたのは、母親の惨めな最後を思い出したからで、現在の鬱屈した生活が父親のせいだろうと、ダブリンの街や社会のせいだろうと、イーヴリンにとっては関係のないことだ。原因はともかく自分の人生の眼の前に現実のものとして現れたのは逃げ出したくなるような、母親のおぞましい姿だ。彼女は父親やダブリンでなく母親のあの姿が何より嫌だったに違いない。埠頭に立って、眼の前に別の人生が見えてきた時にイーヴリンはそのことに気付いた。それは、単に自分が母親を嫌いであったということではなく、このままの自分でいたらどこにいようと自分はあの母親と同じ姿になることに変わりはなく、しかもあっちにいったのではそれに孤独がつきまとうことになる。この話の最後の行にはこうある「彼女の目には、…〈中略〉…彼を彼と認めるしるしさえもなかった」(米本訳)と。男はわたしの家族ではない。家族はここにいる。嫌な母親の面影さえもわたしの家族、わたしの一部だ。だから、ここを離れることは決してできない。
 あーあ、女は家庭に縛られるから女になっても俺の試みは実現不可能なのだなあ、というジョイスの独白が聞こえてくるような話である。そんな身もふたもない話の中で救いになるのは、何より家族との思い出を述懐する数行である。「近ごろ父さんが老けこんだことには気づいている。父さんは淋しがるだろう。時どき、とてもやさしいこともある。しばらく前のこと、わたしが一日臥せっていると、父さんは幽霊話を読んでくれて、暖炉でトーストを作ってくれた。またあるとき、母さんがまだ生きていたときのこと、ホースの丘へ家族でピクニックに出かけたことがある。父さんは母さんのボンネット帽をかぶり、子どもたちを笑わせた」(結城訳)何にも増して家族への愛情にあふれた言葉だ。いざ、捨て去ろうとするそのときになって、後にする生活や人生を惜しむ気持ちがこういわせているのだろうか。それは当然そうである。しかしだからこそこの言葉に嘘はないのだ。愛情なんて、追い込まれなければ表出するものではない。夕暮れの通りを家の中を眺め、黄昏れて行くように主人公の心情が煮詰まって行く場面の描写から始まるこの話の冒頭で、すでにそのことが言い尽くされていると言ってもよい―「鼻孔には埃っぽいクレトン更紗のにおいがしている」(結城訳)―鼻の奥深くに染み付いた家の匂いのように、離れがたい家族との絆に主人公は支配されているのだ。永遠のボヘミアンであるジョイスにとっては理解はできても、同化しかねる人生である。疎外された気分となりつつも、侮蔑と羨みに包まれた感情に自身で酔ったに違いない。― 私も酔えた!

―イーヴリンのモデルは、ジョイスの妻ノーラで、フランクはジョイス自身ではないか。フランク(ジョイス)に付いて行ったイーヴリン(ノーラ)はその後苦労が耐えなかったはずだ。
―少年期編3作で様々に姿を変えて登場したフリン神父の幻影は、ここではもう「黄ばんだ写真、あの司祭さまの名前はわからないままだ」に留まっている。まさに青年期のスタートである。
―90年頃に“Quantum Leap”『(邦題名)タイムマシーンにお願い 』というアメリカのTVドラマシリーズがあった。ある科学者(男性)が別の時代の全くの他人の人格(女性の時もある)にタイムワープしてしまう話だ。他人の人生を生きる戸惑いの中でその人では実現できなかったであろう人生に軌道修正してあげるという何ともおせっかいで傲慢な展開だった。アメリカ人らしい発想といえる。この「イーヴリン」の話に強引になぞらえると、自分の妻の人格にタイムワープしてわざわざダブリンに残る選択肢を劇的に選ばせたようにも見えて、何とも自虐的な気もする。

注)固有名詞や一人称の表記は主に米本訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。


ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳