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2010年6月12日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―3―
“Araby”「アラビー」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「アラビー」


『僕、もうアイルランド人じゃない!』


 "ぼく"はダブリンの場末で明るい未来も期待出来ずに燻っている。ある日、近所のお姉さんに恋心を抱き、その弾みでプチ冒険の旅に出るというお話。プチ冒険というのは何駅か先の駅で開かれるバザーに行って、お姉さんにお土産を買って帰る小さな旅のこと。軍資金のお小遣いをあてにしていた叔父さんの帰宅が遅くなり、バザーには終了ぎりぎりの時間にようやく到着することになる。閉店間近の店に恐る恐る立ち寄るが、よそよそしい雰囲気に気圧されて寂しい気持ちになり後悔の念にかられて終る。小さな旅はまたもや失敗であった。
 うっかりすると普通の児童文学として読み過ごしてしまいかねない作品である。喉の通りがいいというか。
 "Dubliners"の中で少年期編ともいわれる3作の最後を飾る「アラビー」は、前2作「姉妹」「出会い」の名残を残している。今回もまた"ぼく"には両親がなく叔父叔母のところで暮らしていて、名前がない。住んでいる家は「行き止まり」の袋小路にあり、「姉妹」のフリン神父や「出会い」の"変態爺さん"の面影を宿している。要するにあれから"ぼく"にたいした進歩はないけど先輩達の影響からはようやく脱しつつあるということらしい。そこで"ぼく"は新たな飛躍を期して「アラビー」というエキゾチックな名前のバザーに出かけるというわけだ。しかもこれは恋する近所のお姉さんに土産を買って帰るという身近でたわいもない動機によるもの。「アラビー」という奇妙な名に、"ぼく"がとてつもなく大きな期待を抱いたのはむしろこの体験を経た後になってからだろう。間に合わなかったからわからなかったけど、本当はもっと凄いものが見られたに違いない。そしてそれを目の当たりにしていれば、"ぼく"はこの閉塞状況からあっという間に抜け出して素晴らしい世界の偉大な住人になれたかもしれないのに…。ここでの後悔は、バザーに来てしまったことの後悔ではなく、機会を逸してしまった事の後悔である。つまり、それだけで自分から幸福の、栄光の資格が奪われてしまったように思ったからである。しかもずっと後になってから思い返したような後悔。ちょうどその時はただただ心細い気持ちの方が強かったであろう。人の心とはそうしたものである。特に幼少期においては。思い出の中の後悔ほど切なく繰り返されるものはない。甘酸っぱいその香りを嗅ぐことはこの上ない快楽である。だが、その快楽の中にその後を生き抜く突破口が潜んでいるのではなかろうか。
 バザーへ向う汽車の旅は、「銀河鉄道の夜」を思わせるようなシュールで人寂しい気配がある。黄泉の国にでも連れて行かれるような。行き着いた先は、極楽浄土でも天国でもない、気取った外国なまりの他者という名の終着駅だ。"ぼく"が本来生きたかった外国のイメージには永遠にたどり着けることはなかった。それは"ぼく"の内面にだけに存在する世界だからだ。憧れは現実の前に存在する。だから現実そのものより自分の内面では優先される。我々日本人にとって、それが最大限に肥大化されたイメージが、天国や極楽浄土や、それに"アメリカ"である。明治維新後、わけても敗戦後の極楽浄土の対象は、天竺を離れ、アメリカという国のイメージに具象化され結晶化された。日本人は、神代の話や、曼荼羅の世界とアメリカの暮らしを同一視する図太さを持っている。それこそが、世知辛い世界に船出した日本が何度もズタズタになりながらもとりあえず、150年ばかりの間生き延びてきた秘訣であった。現代日本の夢見る世界は自らが生み出したアニメやドラマの虚像の中にある。それが虚像であることに何の落ち度もない。ただ、それ自体に根拠のない自信を持っていることに弱点がある。危険がある。自分が一番ダメだとあせっているくらいがちょうどイイ。やっと追いついたと思っているくらいの頃が一番幸せだ。メジャーリーグに入りたての新庄剛志はこういった「僕、もう日本人じゃない」ジョイスがダブリンにこだわった理由もこういう感覚に関係しているはずだ。

注)固有名詞や一人称の表記及び引用した翻訳文は主に結城訳に拠った。あくまで便宜的なもので他意はありません。 



ダブリンの市民 (岩波文庫) ジェイムズ・ジョイス 著・結城英雄 翻訳
ダブリンの人びと (ちくま文庫) ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
ダブリナーズ (新潮文庫) ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀 翻訳


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