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 2010年5月4日更新

平城京遷都1300年にちなんで―1

小説「天平の甍」/井上靖 著 再読


『甍を送ったのは誰だ!』


 “天平の時代に苦労して甍を持ち帰った高僧鑒眞の偉人伝だ”と早合点した小学生がいたが、もちろんそうではない。
 そもそも鑒眞が話に登場するのも遅いし、偶像視されるばかりで、ほとんどその心情を語らせてもらえない。肝心の日本行きの動機といえば「法のためである」の一言のみ。後はひたすら押し黙ったままだ。
 鑒眞を日本に招請した主人公の留学僧普照は、最後の渡海途上になって「鑒眞の渡日と、何十年かけて写経した膨大な経典の山と、果たして故国にとってどちらが価値のあるものであるかは、正確には判断がつかない」というふうなことを言い出す。何を今さら。鑒眞のいう「法」とは絶対的な価値基準の上に成り立つものである。あくまで揺るぎのないものだ。普照が「故国にとってどちらが」と相対的な価値基準上をふらついているのとは全く異なる。迷いながら動かれるとまわりはたいへんだ。
 鑒眞の弟子たちは、渡日について「和上の心のまま」とやはり師同様の絶対的な価値基準に基づく判断に自らの運命を委ねている。一方で、出奔し托鉢僧となり広い唐土を旅する元留学僧の戒融は「日本に生まれたというただそれだけの理由で日本に帰らねばならぬのか」といい「この国には何かある」と日本にない“何か”を求め歩く。普照と対称的な生き方のようにみえるが、自己に絶対的な価値基準を持たないまま拾い物を探すように彷徨しているのであるから、似たようなものである。
 大陸というとてつもなく大きな鏡に映し出された日本人の姿がそこにある。
 放っておくと、花鳥風月を愛でる心が季節とともに移ろうような、ある“気分”に心情・運命をあっさりと流されてしまう。それでも自生する植物のように新たな芽生えを黙ってじっと待つ。“価値基準”とか“判断”とかいう外来からきた貰い物の考えを超えた、日本人の持つ独特のしたたかさがそこに垣間見える。それは大陸人や欧米人が絶対的と思い込んでいるものより、ときに強靭なものであり、ときにはやっかいなものともなる。
 かくしてたくさんの犠牲の上に普照ひとりが戻った。 唐土から普照宛に送られてきた古ぼけた甍(鴟尾)、これは数十年かけて写経した膨大な経典と共に葬られたはずの業行の亡骸が、姿を変えて普照の前に現れたものだ。業行の生涯をかけた執念が甍(鴟尾)となって名刹を飾る。送ったのはもちろん、戒融である。―そういうふうに感じる私はやはり日本人?!―


天平の甍 (新潮文庫)/井上靖 著




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