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2010年6月1日更新

ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」"Dubliners"について―1―
“The sisters”「姉妹」

小説「ダブリンの市民」/ジェイムズ・ジョイス著・結城英雄 翻訳
小説「ダブリンの人びと」/ジェイムズ・ジョイス著・米本義孝 翻訳
小説「ダブリナーズ」/ジェイムズ・ジョイス 著・柳瀬尚紀 翻訳
〜「姉妹」


『タイトルが「姉妹」なのは、なぜだ!』


 主人公の“僕”には名前がない。それに“僕”はほとんどしゃべらない。口にするセリフは「誰のこと?」「死んだの?」くらいだ。徹底した傍観者である。まるで幽霊から眺めた現実界が語られているような感じがする。
 実はある日、成長して作家となった“僕”の心だけが少年の頃の自分の肉体と精神にまるのまま“タイムワープ”したのだ。この話は、その場にいなかった未来の“僕”による記述である。作者自身の話でありながら作者がそこにいない。だから幽霊が語っているのといっしょなのである。しかしながら現実の心の動きは子どものままだ。あくまで“子どもの目線”で描かれている。大人になった“僕”が、子どもである当時の“僕”の心持ちに沿って語っている。作者が子どもの時のほやほやのなまの感情を保持しつつ、大人の語りによる記述をしているのだ。
 “僕”の心に描かれるフリン神父がどれもぼんやりとしているのも子どもの感情で捉えているからだ。大人になった“僕”がフリン神父に感じていたことを、当時の“子ども目線”による心持ちで描いているのだ。ところが終盤になり、姉妹の口を借りて初めてフリン神父の真実の姿が明かされる。ここで“僕”のまだ稚拙な“子ども目線”を超越した迫真性が与えられることになる。それは、同時に“僕”の自我の芽生えにも繋がる。
 ―以下、話に沿って追ってみることにする。
 最初の段落では、“僕”はひたすら“あの人”の死を待っているようにみえる。米本義孝の訳では、「くる夜もくる夜も」というフレーズが2度も繰り返され、“チェッ、まだ死なねーよ”感が増す表現になっている。またそれぞれの翻訳に共通する“あの人”という呼び方には、“僕”の神父に対する突き放した距離感が現れている。“あの人”のように生きていたら主体的な人生を送ることなく、不条理で「邪悪で罪深いもの」に引きずり込まれてしまうという子どもなりに感じていた漠然とした予感。“僕”の心内では“あの人”はすでに乗り越えるべき存在、反面教師として唾棄すべきものに落とされている。心の奥底では“早く逝ってほしい”とすら願っているということが読者にまず伝わる。
 第2の段落で“僕”は唐突に「夕食で階下に降りてくる」(米本訳)ことになる。えっ、“あの人”んちの前にいたんじゃなかったの?“僕”が天から降りてきて現実界を覗こうか、といった感じにもみえる。“僕”の心象風景から現実の回想シーンに移るからである。SF的にいえばここで突然子ども時代に心が“タイムワープ”したのだ。
 “タイムワープ”した“僕”の眼の前に現れた最初の人物はコッターじいさんである。コッターじいさんは“僕”の存在に“気付く”と神父の死を告げる。「お前の仲良しが亡くなったとさ」(柳瀬訳)とあてこすりな言い方。ダブリンの街が持つ抑圧的で陰気な気配がコッターおじさんの「黒光りする当たり眼」(柳瀬訳)には感じられる。―ああ、そうだった。こんな人がいて、こういう会話をしてたなあ―。【当時の感情が蘇る】神父とは距離を置いて見られたい、神父のようにはなりたくない。でもコッターおじさんのことは自分の中ではっきりと否定したい。しかし子どもの“僕”にはどっちもできない。オートミールを口に詰め込んで封じ込めた怒りは、コッターおじさんだけでなく、神父や“僕”にも向けられている。コッターおじさんにはっきり反駁できない自分、神父への理解も反論も持てないままの自分に対する怒りと焦り。
 その夜、“僕”は寝付かれなくなる。神父のことが頭から離れない。でも相変わらず神父は子どもの“僕”には分析できないぼんやりとした存在だ。“僕”は何かいいたそうな神父の灰色の顔を思い浮かべると「自分の魂が何か心地よい悪の領域に遠のいていくのを感じた。」(柳瀬訳)その一方、中風で死んだことを思い出すと「自分もまた、あたかも聖職売買者の罪を赦そうとでもいうように、弱々しく笑っている気がした。」(柳瀬訳)“僕”の気持ちは揺れ動く。自分の心中から神父をすっきりと葬りされないでいる。とらえきれない神父の実体と、そのみじめな“死”に対するあわれみや同情に絡めとられて、まっすぐに自分自身の“生”―Life―に向えない気持ちなのだ。
 翌朝、“僕”は神父のみすぼらしい住処を訪れ、その死の現実を確かめる。それは同時に神父の晩年の生のみじめさが読者の前に浮かび上がる瞬間でもある。“僕”に漠然とした不安をもたらし、すでに目障りにさえなってしまっていたネガティブな人生は遂に終えんを迎えた。もう気に病むこともない。“僕”は街に注がれる陽光を浴びて神父の呪縛からの開放を感じる。しかし、“僕”はこれからどこに向えばいいのだろう。それは「そのあと夢で見たこと」(柳瀬訳)に答えが暗示されている。願望といってもいい。ともかくどこかへ逃げ出したい。逃亡先は、ぼんやりしたイメージの「ずいぶん遠く、風習の違うどこかの地」(柳瀬訳)である。しかし、「夢の結末は思い出せなかった」(柳瀬・結城訳共)『夢の結末』=『“僕”の人生』は未完、いやそれどころか始まっていないも同然である。
 ―実際ジョイス自身はその後ダブリンを離れ異国へ向う。ジョイスの少年時代への訣別宣言がダブリン哀歌となって紡がれる短編集"Dubliners"を象徴する部分である。
「夢の結末は思い出せなかった」(柳瀬・結城訳共)…追想の夢物語、子どもの頃への感情移入はここで終る。
【大人による語りが始まる】
 夕方、“僕”は叔母に連れられてお悔やみに再び神父の家を訪れる。ここからがこの短編の白眉である。一見、エピローグ風だが、むしろ今までの話はこの再訪場面を描くための序章に過ぎないと言ってさえいい。
 “朝”の訪問は“僕”、つまりは人生の始まりであり、“夕方”の再訪は神父=死、あるいは人生の黄昏を表す。黄昏時の陽光と蝋燭の光が入り交じる幽玄な世界。生と死があいまいなままに移り行く時間。まるで日本の能、夢幻能のようである。妹ナニーが前シテ、姉イライザが後シテ、叔母がワキ、“僕”がワキツレ、もしくは観客である。“僕”は一言も話さない。ひたすら耳を傾ける存在となる。「姉妹」が主役の舞台の始まり。姉イライザは後シテであり、その本質・正体はフリン神父である。能と異なり姉イライザは決してフリン神父の一人称では語らない。それでも、姉イライザは神父の真実に迫る姿を描いてみせる。今までぼんやりと霧のよな存在であった神父の人生が姉イライザの口を通してはじめてはっきりとした像を結ぶ。
 玄関先に現れた妹ナニーは、まるで兄である神父フリンの霊が乗り移ったようである。彼女は終始無言である。「うなだれた頭は手摺りの高さまでも届かない」(柳瀬訳)それはすり足でゆっくりゆっくり舞台に登場する能の老女を思わせる。死の世界からの使者としか思えない風体に思える。生ける屍のような妹ナニーに案内されて、はじめて目にする死せる神父の姿は厳めしく重苦しい。そして、“僕”を包む込むのは“生”の世界の放つ、むせかえるような花の匂い。
 生と死の境界である重苦しい死者の部屋から“僕”たちは「十字を切」(各訳共)って離れる。
 そして階下の部屋での、神聖な時間が始まる。真の“生”に向うための浄化の儀式。まずはシェリー酒でカトリック流お清め。“僕”にはクラッカーが勧められるが、「ばりばり音がする」(柳瀬訳)ので断る。肉体の営みが神聖な時を穢すことを憚るがごとく。まずは叔母が語りかける。"Ah, well, he's gone to a better world."「あの方はもっといい国に行ってしまわれた」(米本訳)この"a better world"は、この短編の冒頭シーンでの神父の言葉"I am not long for this world,"〈わたしはもう長くないよ〉(米本訳)の"this world"に呼応する。"this world"から"a better world"へ。"a better world"というと、天国や極楽といった楽園みたいなところというより、“この世”よりかは“ましなところ”くらいに感じられる。
(そしてこの時、妹ナニーは生と死の媒介の役割を終えて眠りにつく)
 姉イライザは「かわいそうなジェイムズ!」(結城訳)を何度も繰り返す。叔母も、姉イライザもひたすら神の慈悲を願う。神父の不幸な死を招いたのは神父の不幸な生き方そのもであったことが強調されている。最近、生まれ故郷を訊ねたがっていたと姉イライザがいう。“生まれたところからやり直したい”―神父も自らの生涯を悔いてるようにとれる。まだ少年だった故郷にいた頃の神父、すなわちそれは“僕”に重なる。ふたりの少年が共鳴する。これは偽りの人生だった、と。聖杯をこわした事実にそのことが凝縮されて表現される。神父が失意を感じはじめたのは聖杯を壊す以前のはずだ。侍者の少年が聖杯を壊したのはむしろその失意の結果とさえいっていい。聖杯は神父にとっていまいましい存在にすらなっていたのだ。神父が狂気に陥ったのは聖職の仕事を全う出来なかったからではなく、ダブリンの街で聖職に生きた人生そのものを深く悔いたからである。“僕”の前にその事実をあきらかにしたのが姉妹なのである。
 姉妹が表したのは“僕”の末路〈未来像〉でもあり、その鎮魂歌である。若い精神の死と再生の物語。姉妹は“僕”を導く神聖な存在なのである。だから表題も「姉妹」以外には考えられない。

 ―コッターじいさんは幾何学の側、つまりはダブリンの現実世界を代表する。フリン神父は教理問答の側、つまりはダブリンの精神世界を代表する。
 ―コッターじいさんはパイプをふかしウィスキー工場の話をする、つまりは道具と科学の側の人間だ。フリン神父は嗅ぎ煙草を鼻に詰め込み教会のもろもろの制度の話をする、つまりは自然と宗教の側だ。
 ―コッターじいさんは自活を信条とする。フリン神父は姉妹に生活を委ね、嗅ぎ煙草を“叔母”に贈られ、“僕”がそれを入れ物に移してあげるくらいに他人に依存した暮らしを送っている。
 ―コッターじいさんとフリン神父はダブリンの二つの面として究極では一致する。いずれにおいても肯定的な人生に通ずるものではない。
 ―朝の訪問でドアの前でカードを読んでいたのは、「みすぼらしい二人の女と電報配達の少年」(柳瀬訳)であるが、これは姉妹と“僕”の映し絵である。
 ―神父にとって、聖職についたのが最初のつまづき。ダブリンの街に移ってしまったのが2度目のつまづき。そして、聖杯事件での何か“出来事”が3度目のつまづきであったことが暗示されている。3度目の発作“stroke”とはそういう意味も隠されている。
 ―聖杯を壊したのが「侍者の男の子のせい」(柳瀬訳)であるとか、あるいは“僕”に対する神父の態度とか、そもそもThe sistersという題名とか、フリン神父の性的志向を示唆する要素があちこちに提示されている。
 ―聖杯事件の話が始まる前に“僕”がシェリー酒を口にする。“僕”の自我が目覚める第一歩である。最終場面で「…僕はわかっていた。老司祭はさっき見たときと同じように棺に静かに横たわり、胸に徒な聖杯をのせたまま、いかめしくて険しい死顔をしているのだ」(柳瀬訳)と作者は述懐している。「…僕はわかっていた」というのはもはや大人になった現在の作者の視線からでた言葉である。その当時は漠然と、ぼんやりとしてはいたが実はよくわかっていたというニュアンス。「老司祭はさっき見たときと同じように棺に静かに横たわり」というのは、未だ作者の心の中に神父は横たわっていることを示す。そして「胸に徒な聖杯をのせたまま、いかめしくて険しい死顔をしている」ように、神父は聖杯が表象する聖職の記憶に死後も苛まれつづけていて、それが「僕はわかっていた」のである。 ―最後を飾る短編「死者たち」とこの「姉妹」はあきらかに対をなしている。

 ―ちなみに、フリン神父の死んだ1895年は、我が国では明治28年で日清戦争が終わり下関条約が結ばれた年である。

注)原文はPenguin Popular Classicsに拠る。

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Dubliners (Penguin Popular Classics) ペーバーバック
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